翔びたくて

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「翔びたくて・・・9」

「そういうこともないんだけど・・・。」

 涼香は、そう答えながら考えこんだ。

 子育てが楽しい、主婦業が大好き・・・、そんな人がいるのだろうか?

 それとも皆、そうなのだろうか?

 自分にとって主婦業も子育ても、何となく自分に与えられた義務だと感じていたように思う。

 黙りこんだ涼香を見て、由比子がとまどう。

 「ご・・・ごめんなさい・・・。私、何かへんなこと言った?」

 おそるおそる聞く。

 「あ・・・こちらこそ、ごめんなさい。ほら、私、考え込む癖があるから・・・。」

 なんだ、と由比子が安心したようにコーヒーを飲む。

 「あの・・それで・・・、佐伯さんは楽しいの?」

 「え?」

「だから・・その主婦業が・・・。家事とか、育児とか・・・。」

ああ、という顔をしてそれから少し由比子が考える。

「そうねぇ・・・。楽しいばかりじゃ済まないわよね。子育てって。家事だって同じだわ。私、料理作るのが苦手で。」

「そうよね。大変よね。毎日、毎日、同じことの繰り返しだし。佐伯さんは嫌になったりしない?」

「う〜ん、そうねぇ、もちろん嫌になったりもするわよ。あんまり、子ども達が言うこと聞かないと『いい加減にしろーー!!』って怒鳴りたくなっちゃう。」

「そうよね、そうよね。で?で?そんな時、佐伯さんだったらどうするの?」

涼香は懸命に由比子にたずねた。

この人なら!ラジオ体操や一杯のコーヒーを極上の幸せに変えられるこの人なら、家事、育児も幸せな作業に変える魔法を教えてくれるかもしれない・・・。

そんな予感がした。

 「そう・・・。どうかな・・・・?」

 由比子は涼香の質問に対して真剣に考える。

 「あ!そうだ!!」

 思いついたように由比子の顔が輝く。

 「なになに?」

 涼香が身をのりだす。

 「あのね、お兄ちゃんが幼稚園に通っていた時のことなんだけど、本間先生がモンテッソーリの話しをしてくれたの。『日常生活練習』という分野があるんですって。」

 「ああ、知ってるわ。日常、感覚、数、言語、文化って5分野があるのよね。」

 まぁ、詳しいのね、と驚く由比子に涼香は先を促した。

 「ええ、あのね、日常生活練習の中は更に4つのグループに分けられるんですって。“環境への配慮”“自己自身への配慮”“社会への適応”“運動の分析と調整”の4つ。」

 「へぇ・・・。どういう意味?」

 「うん、あのね、第一グループの環境への配慮というのは、自分をとりまく環境、物との出会いであり、道具を上手にコントロールできるようになるのが目的なんですって。ほら、ハサミを使えるようになったり、机の運び方を知ったりとかね。」

 「ええ、ええ。」

 涼香は綾子の話しを思い出しながら聞いた。

 「それでね、第二グループの自己自身への配慮は、衣服の着脱とかね、鼻をかんだりとか、自分の命を大切にする活動なんだそうよ。」

 「自分の命を大切にする・・・。」

 「そうそう。それでね、第三グループの社会への適応は、挨拶のしかたを覚えたり、刃物の受け渡しの仕方を習ったり、他人の命を大切にする活動なんですって。」

 「他人の命を大切にする・・・・。」

 涼香がもう一度つぶやく。

 「そうなの、本間先生のこのお話しが忘れられないのよね。子ども達に命の大切さを教えるんだってお話し。自分の命も他人の命も。

『だから、つばさ幼稚園で一番大切に考えて、子ども達に伝えていこうと思っているのは命を大切にするということです。』って。私、あの時、この幼稚園にしてよかったって思ったわ。」

 「へぇ・・・。」

 涼香も一緒に感心する。

 「そしてね、その時こうおっしゃったのよ。『皆さんはどうですか?ご自身の命も他人の命も大切にしていますか?』って。『もし、育児に疲れたと思うなら。なんとなく毎日がつまらなくてイライラしているのなら、まず、ご自身の命を大切にしてみてください。』って。」 

 自分の命を大切にする。涼香にとって初めて聞く話しのように感じられた。

「『もし、育児に疲れて、ついつい子どもにあたってしまう、なんて悩みを持っていらっしゃるなら、まず、ご自身の命のケアをしてみて下さい。そして幸せな気持ちになって下さい。あなたが心からくつろいだ幸せな気分になった時、きっとその悩みは消えていますよ。』って。なんだか、感動しちゃったわ。とてもよく覚えているの。その話し。

うちも上の子って活発だったから、疲れてた時だったのよね、きっと。いつも、ちゃんとしなきゃ、きちんとしなきゃ、そしてきちんとさせなきゃってことばかり考えて、ちょっとのことで子どもを怒鳴ったりしてたのよ。

でも、本間先生の話しを聞いたら安心しちゃったわ。」

「本当・・・。素敵な話・・・。」

涼香も心が温かくなるような気がした。

「それで?佐伯さんはどうやってご自身の命を大切にしたの?何をした?」

興味津々で聞く。

「そうね、あまりよく覚えてないわ・・・。映画でも観に行ったかしら?

でもねそういうことじゃなくって、『そうか、自分の命を大切にすればいいんだ』って思ったら、それだけでなんだか安心しちゃったのよ。ほっとしたら、いろんなこと頑張れるようになった気がするわ。ううん、頑張るというより、生活に張りが出て、エネルギッシュになれたってかんじかしら・・・?ごめんなさい。うまく言えないけど・・・。」

「ううん、わかる、わかるわ。」

涼香は心からそう言った。

涼香も上手く言えないが心から由比子の言うことが納得できるような気がした。

自分の命を大切にする・・・。そして他人の命も・・・。

よく心に刻もうとした。

「ねぇ、佐伯さん、それで第四グループは?第四グループはどんなグループなの?」

涼香が更に質問したその時、入り口に何人かの女性が入ってきた。

「いらっしゃいませ。」

ウェイトレスの明るい声がする。

入り口を見て、涼香がはっとした。

そこには池谷を中心とするグループの5〜6名の母親達が立っていた。

池谷ともう二人の母親の顔はわかった。同じさくら組だ。

他はおそらく、あの幼稚園説明会の折、一緒に来ていた者達だろう。

あまり、会いたくないな・・・、そう思いながらも固まってしまい、顔をそむけることができない。

そんな涼香の様子に由比子が気づき、入り口の方を見た。

池谷達も涼香たちに気づく。

あら、という顔をして会釈する。 

「ほら、石原さん、池谷さんと上野さん、それに山下さんよ。」

由比子が嬉しそうに言う。

「本当、偶然ね。」

相槌をうつ。

由比子が池谷達に向かい、懸命においでおいでをする。

ひゃぁ・・・。

涼香の内心はひたすら隠された。

池谷達は顔を見合わせ、それからウェイトレスになにやら告げる。

どうやら、連れがいるので一緒にしてほしいと言っているようだ。

池谷達はグループで座るのによい広いテーブルに案内される。

同じさくら組の上野が涼香達においでおいでをする。

「いきましょ。」

由比子ににっこり笑って促され、涼香も少々ひきつってはいてもにっこり笑い返すしかなかった。

席は奥のソファ席と通路側のイス席に一つずつ、対角線上に離れた場所があいていた。

うわ・・・・。席も佐伯さんと離れちゃうのか・・・・。

まさか由比子の隣がいいなどと子どもじみたことをいうわけにも言わず、近くのイス席に座った。正面は上野麻衣子の母親、横は違うクラスの子どもの母親だった。

池谷は涼香の斜め前になった。

「偶然ですね。佐伯さんとはよくご一緒に?」

上野が聞く。「

「いえ、佐伯さんとも偶然、さっき会ったんです。」

「そうですか。・・・あ、こちらはご存知ないわね。野中さん。ばら組に今年男の子が入られた方です。こちら同じクラスの石原さん。」

隣同士の二人は挨拶をする。

「皆さん、もともとお知り合いなんですか?」

涼香が聞く。

「ええ、私達同じ育児サークルでご一緒していたんです。幼稚園選びとかも初めてでよくわからなかったのを、池谷さんがとても親切に教えて下さって。」

ばら組の父兄だという野中が答える。

「まぁ、やめて。教えただなんて。私は自分でいいと思ったことを皆さんにお話ししただけよ。」

池谷が言う。

「ううん、本当にすごいんですよ。池谷さんって。なんでもご存知で。幼稚園の教材とか作るG社にずっとお勤めだったんですって。」

G社・・・うわ・・・大手・・・。

涼香も驚いた顔をして聞く。

池谷が満足そうに見えた。

「入園してクラスが違ってしまっても、こうして時々お会いして、いろいろモンテッソーリ教育のこととか教えてもらっているんです。悩みを聞いて頂いたり。」

由比子には石原さんも仲間に入れてあげましょうか?と聞こえる。

 「だから、教えるだなんてやめてよ。野中さん。」

 本当に嫌そうには見えない。

 「ううん、本当に勉強になるもの。」

上野が言う。

 「池谷さんに教えてもらって初めて子どもってものがわかった気がするわ。」

 「やめてってば。ほら、石原さんが驚いているじゃないの。」

 どきっ!顔に出ていただろうか!

 涼香は慌てて取り繕う。

 「まぁ、私にもいろいろ教えて下さいね。」

 ああ・・・また、私ったら調子ばっかりよくあわせちゃって・・・。

 内心、自分を責めつつも同じクラスの母親同士、波風たてずにやっていきたい気持ちが先行してしまう。

 「私、あの話しも感動したわ。目をさまされたって感じ。」

 上野が話し出した。

 「石原さん、公園に遊びに行った時、浩之君が帰るのを嫌がって困ることってない?」

 「え?ええ、ある、ある。あります。」

 まぁ、そんな時にどうすればいいのか、教えてもらえるのね?俄然、興味をかきたてられる。

 「でしょ?うちも困っていたの。うちの裕也ったら一度公園に行くと、もう帰るのが大変で・・・。泣いて嫌がっちゃって。こっちもイライラするから、公園に行く度に帰りは大泣きさせてたのよ。」

 「ええ、それで?」

 どんな魔法を使えばその問題がウソのように解決するのだろう。興味津々に涼香が聞く。

 「そう。そんな時、池谷さんに言われたの。大人の都合を考えてばかりいないで、子どもが満足するまで遊ばせてあげなきゃって。」

え・・・?

どういう意味なのだろう?涼香がわからずに不思議そうな顔をする。

「ね?すごいでしょ?私、目からウロコが落ちるようだったわ。確かに早く家に帰りたいっていうのは大人の都合だものね。」

「それで・・、どうやっていつ帰るんですか?」

「やぁねぇ、石原さんったら。だから、帰らないのよ。帰らないで子どもが満足するまで遊ばせるの。」

「あの・・・、でも・・・、帰ってお掃除とかお洗濯とか・・・、人と約束があったりもするかもしれないし・・・。」

涼香が遠慮がちに聞く。

「だからぁ、そういうこと全てが!大人の都合だってことなのよ。だってそうでしょ?子どもには関係ないもの。子どもは遊びたいのよ。狭い家の中ではなく、広い、緑のある公園で遊ぶのが子ども達の成長に必要だってことなの。」

上野の後を池谷とる。

「つまりね。それがモンテッソーリ教育なの。子どもは自分でどうやったら成長していけるか知ってるのよ。ボタンを自分でかけないと気がすまない時期とかあるでしょう?あれはね、子どもが自分の手を洗練させるために必要な練習だからなのよ。だから、大人はイライラしたりせず、子どもができるまで待ってあげるべきなの。

公園から帰りたがらないのも同じことだわ。子どもがそんなに泣いて公園から帰るのを嫌がるのは、それは子どもの成長に必要だからなの。大人の都合ばかり押し付けないで、大人が子どもにあわせてあげないとね。」

上野と野中はうんうん、と感じ入ったように聞いている。

 ボタンを自分でかけないと気が済まない・・・。

 この話しは前にも聞いた。

 そうだ。綾子から聞いたのだ。浩之がシュガーポットを落として割った時、ミルク・ピッチャーに水を入れたものを与え、水のあけ移しをさせてくれた。

 泣いていた浩之がピタリと泣き止み、水のあけ移しに集中している姿には本当に驚かされた。

 確か、生命衝動があるから、生きていくために子どもは自分の身体をコントロールする練習をしたいのだ、とそういう話だった。

 確かに綾子も子どもが必要な活動を与えなければならない、と言っていた・・・気がする。

でも、そうだろうか・・・?

 それって泣いていたら、公園から無理矢理引き離してはいけないという意味だったのだろうか・・・?大人のことは全て犠牲にして子どもの希望を全て叶えてやればいいのだ、と。そういう意味だったのだろうか・・・?

 涼香は釈然としない

 「私はあのパン屋さんで感動しちゃったわ。」

 今度は野中が口を開いた。

 「あのね、皆でお昼のパンを買いにいった時のことなんだけど、子どもってパンばさみを使いたがるじゃない?」

 涼香の方を見る。

 「あ・・ええ、ええ。」

 はっとして慌ててあいづちをうつ。

 「うちの子いつも自分にやらせろって泣いて怒って・・・。それで子どもを連れてパン屋さんに入るのが嫌なくらいだったの。その日もそうだったわ。でもね、池谷さんったらすました顔して正志君にパンを取らせていたの。そしてね、正志君、トレーに取ったパンを二つとも落としちゃったのよ。」

 それで・・・、どうしたのだろう?涼香は野中をみつめ、話しのつづきを待つ。

 「私だったら『なんてことするの?!!』なんて怒鳴りあげてるところだけど、池谷さんったら顔色も変えずに、『あら、落としちゃったのね。じゃぁ、もう一度取りましょうね。』って・・・。」

 「それで・・・?」

 「ええ、正志君にもう一度パンを失敗しないように取らせて、それから落としたパンも含めて、4つ分お金を払ったのよ。もう、私、感動しちゃった。」

 感動・・・。

 一体、何に感動したのだろう・・・。

 涼香はますますわからない。

 「パン屋さんでパンばさみを使いたがるっていうのは小さい子どもにとってよくあることでしょう?大人は子どもがやりたがる活動をやらせてあげるべきなの。大人の都合ばかり考えていてはいけないのよ。正志の良い成長のためならパン二つ分のお金なんてなんてことありませんもの。」

 池谷が再び付け加える。

 涼香はますます困惑する。

 そんな・・・・。

 それは本当なのだろうか・・・?

 子どもの望むことは何でもやらせてあげる・・・・。

 本当にそれでいいのだろうか?それがモンテッソーリ教育なのだろうか?

 確かに綾子も似たようなことを言っていた気がする。

 でも、でもでも・・・。

 綾子の時は納得できた、でも今のこの話しは何か釈然としない。

 でも、どこがどう綾子の話しと違うのか自分では整理がつかない。

 「ねぇ?石原さんのお宅は困っていなかった?パン屋さんとかで。」

 突然、上野にふられる。

 「え?あ・・ええ。困ってました。もう、うちの子きかないから・・・。」

 思わず答える。

 「それで、石原さんはどうなさってたの?」

 「いえ・・もう、浩之にだなんて、とてもやらせられません。おっことすの目に見えてますもの。」

「まぁ、それじゃ今度からちゃんとやらせてあげないとね。」

何故、あなたにそんなこと言われなきゃいけないの?

内心、カチンとくるが、「え・・ええ・・・」と思わず返事をしてしまう自分に腹がった。

佐伯さん助けて〜!!

内心、叫びながら由比子を見ると、由比子は楽しそうに残りの3人と談笑している。

ああ、佐伯さんさえ隣に座っていてくれていたら・・・。

彼女なら何か涼香にも納得のいく話しの展開にしてくれたのではないだろうか?そう思える。

そうだ!綾子に聞こう!

綾子ならきっと自分がすっきりできるような説明をしてくれるに違いない。

今日は綾子に電話をするぞ!!

そう固く心に決めた。