翔びたくて

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「翔びたくて・・・8」

5月に入り、輝くような新緑を目にする度に涼香はウキウキしてくるようだった。

ゴールデン・ウィークがあけて浩之の幼稚園通いも親子ともどもこなれてきたかんじだった。

長い休み明けに幼稚園に行くのを嫌がるのではないか、と心配していたがそれもなく、結局、浩之が泣いたのは入園式の翌日一日だけだった。

 浩之もそれなりに幼稚園を楽しんでいるようだったし、涼香自身も浩之を連れず一人でふらっと雑貨屋に入ったりできるのがたまらなく嬉しく感じられた。

「今度はちょっと足をのばして池袋のSデパートにでも行ってみようかな?」

などとつぶやき、子どもが少し手を離れて自由な時間を手にいれた幸せを確かめるように味わっていた。

 今日も涼香は幼稚園まで浩之を送り届けた。

つばさ幼稚園は涼香の住む街の隣の市にある。浩之をつばさ幼稚園に入れるまではほとんど馴染みのない街だった。

ちょっと幼稚園の回りを散策してみようと一人ぶらぶら歩き始めた。

商店街にまで来てみたものの、朝早く、どこも店は開いていないが、学校に行く前の生徒達のためだろうか、文具店だけがぽつりと開いていた。

涼香は何気なしに入ってみた。

小さな文具店だがこぎれいに何でもそろっているようだ。

ふと、涼香の目がとまる。

自分が結婚前に勤めていたデザイン会社でデザインした作品「フラワーちゃん」のシャープペンを見つけた。

自分のデザインが商品化され、それがそれなりにヒットした時は本当に嬉しかった。そのシャープペンを手にして見つめていると若かりし日の華やいだ思い出が蘇るようだった。

「楽しかったな・・・あの頃・・・。」

シャープペンの向こうに、デザイナーとしての夢に満ち溢れていた自分を見た。

大変な仕事だとも思った。残業つづきで疲れ果てたり、人間関係で悩んだりもした。

それでも、それらの悩みは全て自分のためだけにあった。

時間は自分のためだけに存在し、悩みも癒しも全て自分の中だけの問題だった。

でも、今は違う。

悩みは子どものためであり、喜びも子ども故にある。

全ての時間は子どものために使われている。

たとえ、一人で出かけたとしても、子どものことが気になり、帰る時間が気になった。

「悩みも苦しみも、喜びも、子どものためか・・・。」

ショープペンを手にしたまま、ぼぅっとしてつぶやいた。

こうして思うと浩之が生まれる前はなんと気楽だったのだろう、と思える。

自分だけの問題、自分が我慢さえすればいいこと、自分で頑張ればいいこと。

結果も自分のためであり、自分の喜びであった。

つまりは浩之が生まれて人生が立体的になったのだ、と思いついた。

自分は公園に行きたくないけど、浩之は喜ぶ。

読書に熱中すれば自分は充実するが、浩之はすねる。

そして、浩之の喜びも悲しみも、自分自身の心のことのように感じられる。自分の思惑と感じる心はそのままに、別の人格の心まで感じるようになってしまっているのだ。

「母親ってすごいかも・・・。」

もう一度つぶやいた。

「石原さん。」

突然、呼びかけられはっとして振り向いた。

佐伯由比子が立っていた。

「どうしたの?何度も声をおかけしたのよ?」

由比子はいつも優しげに微笑んでいる。

「え?あら、やだ。いつから?」

慌ててシャープペンを元の棚に戻す。

「お兄ちゃんのね、ノートを買いに来たの。ええっと・・、ああ、これこれ。それからシャープペン・・・。」

由比子がシャープペンを物色する。

「ねえ、どうしたの?随分考え込んでいらしたけど?」

「ええ、恥ずかしいわ。私、時々、考え込む癖があるの。」

由比子はふふふと笑いながらシャープペンをあれやこれや手にとってみていた。

由比子の手がふとフラワーちゃんにのびる。

涼香は少しどきりとする。

「お兄ちゃんのでしょ?かわいすぎない?」

それでもいい?それ好き?買ってくれる?

「ううん、シャープペンは私のなの。私っていくつになってもかわいいものが大好きで、キャラクターものとかもよく買ってしまうの。」

由比子はそう答えながら、さらさらと試し書きをする。

「おかしいかしら?」

フラワーちゃんを手に取り直し、聞く。

自分自身に聞いたのか、涼香に聞いたのかわからないまま、涼香は少々慌てた。

一瞬、何と答えたものかわからずどぎまぎする。

「おかしいと思います?もう子どももいるのにこんなかわいいものを持つなんて。」

今度は涼香の方へ向き直り、はっきり聞いた。

「え?え?あ・・・いえ・・そんな・・・。でも、それでいいの?」

慌てて答える。

「やっぱりおかしいわよね・・・。」

涼香の“それでいいの?”ということばを誤解してとったようだ。

「あ!違うのそういう意味じゃなくて。」

涼香はますます慌てた。

「ふふ、いいのいいの。私、気にしてないから。主人にもよく笑われるんです。」

そう言いながら、由比子はフラワーちゃんを手にしたままレジに向かった。

あ・・ど・・どうしよう・・・。

涼香は一人であせっていた。

レジを済ませて由比子が改めて涼香に向き直る。

「石原さん、今、お忙しい?」

「え?あ・・い・・いえ。」

どこでどう説明したらいいかわからずに思わず返事をする。

「じゃぁ、お茶でもしていきません?この先に朝からやってるファミレスがあるんです。」

涼香の顔が輝いた。

「ええ、是非!」

由比子とは一度ゆっくり話してみたいと前から思っていた。

涼香は喜んで由比子の誘いに応じた。

「お二人様ですか?」

レストランに入ると店員が愛想よく出迎えた。

「はい。」

二人はうなずき、ウェイトレスに案内され、席についた。

「石原さん、朝、食べた?」

メニューを見ながら由比子が聞く。

「ええ。」

「そう・・・私も・・・。でも、またお腹すいちゃったわ。何か食べようかな・・・。」

「あ、どうぞ、どうぞ。」

遠慮せぬように、と涼香がすすめる。

「お決まりになりましたか?」

そんな二人のもとへウェイトレスが注文をとりに来た。

涼香は迷うこともなくメニューをとじる。

「私、コーヒーを下さい。」

「はい。」

ウェイトレスの手元でピッという機会音がする。

「私は・・・う〜ん、どうしよう。それじゃ、納豆定食。」

え?!

涼香は驚いた。

「なんだか意外だわ。佐伯さんが納豆定食だなんて・・・。」

ウェイトレスがメニューを下げていった後、涼香が言う。

「うふふ、恥ずかしいわ。朝、しっかり食べてきたのに。私って大食いなの。」

朝、食べてきたのに、納豆定食。

恥ずかしそうに笑う由比子がますます魅力的に見えた。

「ううん、羨ましい。たくさん食べてもそんなに細いなんて。」

「ええ、主人にも呆れられるんです。痩せの大食いだって。」

「佐伯さんってスマートで美人で、私のイメージでは朝食はカフェ・オ・レとクロワッサンだけってかんじなんだけど。」

「まぁ、美人だなんて、おだてても何もでないわよ。」

 二人は昔からの友達同士のようにうちとけていった。

 「お待たせ致しました。」

 ウェイトレスがコーヒーと納豆定食を運んでくる。

 「納豆はよーーっく混ぜないとね。」

 そう言いながら、お箸でかき混ぜる由比子を見て涼香は思わずふきだした。

 「ごめんなさい。だってあまり意外なものだから・・・。」

 「え?そうかしら?私って和食党なの。主人は朝はパンが好きだから、いつもパンにしてるんだけど。本当は朝は納豆とお味噌汁が好きなの。」

 「ご主人思いなんですね。」

 少し笑いすぎただろうか・・、涼香はさりげにフォローをいれる。

 「そういうわけではないんだけれど、作ったものをおいしく食べてもらえないと悲しくなってしまうので・・・。ついつい相手の好みにあわせてしまうのよね。割と早起きで朝食も早いから、子どもを幼稚園に送った後はもうお腹がすいてしまうし・・・。」

「へぇ・・・、早いって何時頃に起きるの?」

「そうねぇ・・・、5時半くらいかしら・・・?」

「ええっ?!!5時半?!!」

涼香はまたまた驚かされる。一体、今日は何回、由比子に驚かされるのだろうか。

「そうね、そのくらいには目が覚めるわ。6時のラジオ体操するのが日課なの。」

「ラジオ体操?!!」

更に素っ頓狂な声をあげる。

「ラ・・・ラジオ体操ってあの、小学生の時、夏休みとかにやったあれ・・?」

「ええ、それ。何か続けられる運動をした方がいいと思って始めたの。ジョキングとかって時間もかかるし、挫折しそうで・・・。でもラジオ体操なら、簡単だし、短時間ですむし、これならいいかな、と思って始めたんだけど、やってみると気持ちがいいの。」

「気持ちがいい・・・。」

ラジオ体操で気持ちがいい・・・ただただ、驚いて由比子を見つめる。

「ええ、ほら、この頃は季節もいいでしょう?朝、まだ、回りが静かな時間に昇りたての太陽の光を浴びて緑を見ながら身体を動かす!本当に気持ちがいいの!ラジオ体操ってちょっと腰を回したりとか、ジャンプしたりとか、普段、あまりやらないところを動かしたりするから余計気持ちいいんでしょうね。」

朝のラジオ体操ってそんなに気持ちよかったっけ・・・・・・・・。

ちょっとやってみたくなるような楽しい口ぶりに、涼香はますます引き込まれていった。

「ああ、おいしい!」

納豆を一口、口にして由比子が心から幸せそうな顔を見せる。

箸先に納豆ご飯をのせ、口元に運ぶ由比子はなんとも上品に見えた。

納豆を食べる姿が上品か・・・・。

やはり、佐伯さんってすごい。

由比子は涼香の憧れになったようだ。

食事を終えて由比子はコーヒーを注文した。

由比子は運ばれたコーヒーを愛おしげにみつめ、それからコーヒーの香りをゆっくり楽しみ、そして味わう。

そんな姿を見ほれたように、涼香はみつめた。

ラジオ体操も納豆ご飯も、一杯のコーヒーも、この人にかかると極上の幸せに替えられるんだわ・・・。

由比子がふと見つめられていることに気づき、うん?という質問の目を涼香にむけた。

「あ・・ごめんなさい・・別に・・・。」

と答えながら、涼香はふいにさっきの文房具店でのことを思い出す。

「あ、そうだ、あの、佐伯さん、ごめんなさい。フラワーちゃんのことだけど、誤解させちゃったわ。そんな意味ではなかったの。」

必死に説明しだす。

 「え?フラワーちゃん?」

 由比子が何のことやらわからずに聞き返す。

 「あのさっきのシャープペン。フラワーちゃんって名前のキャラクターなの。私、『それでいいの?』なんて聞いてしまって。」

 「なんだ、そんなこと?本当に気にしてないのに。へぇ、あれフラワーちゃんっていうの。かわいい!時々、みかけるわよね。・・・でも、誤解って?」

 「ええ、私が聞いたのは、そんな子どもっぽいのでいいの?という意味ではなくて・・・、その、なんというのか・・・、あのフラワーちゃん、私の作品なの。私がデザインしたの。それで・・・。」

 「ええ?!石原さんが?すごい!」

 今度は由比子が驚く番だった。

 「ああ、だから『それでいいの?』って聞いたのね。へぇ〜、すごい!石原さんってデザイナーだったの!」

 「あ、ううん!違うわ。そんなんじゃないけど、昔、結婚前に文房具を作っている小さな会社に勤めていたの。それで・・・。」

 「同じことよ。すごい!素敵!私、お友達に自慢しちゃうわ。新しくできたお友達がデザインしたシャープペンよって。」

 素敵な人だと憧れる由比子に、こうも盛大に褒められ、涼香はすっかり嬉しくなった。

 「それで復帰はいつするの?そろそろいいんじゃない?ヒロ君も幼稚園にあがったことだし。」

 「え?ええ?!!そんな、復帰だなんて・・・。考えてないわ。」

 涼香が口ごもる。

 「まぁ、どうして?そんな才能があるのに・・・。ああ、そうか、主婦業の方がもっと好きなのね?子育てが楽しいのね?」

 屈託なく由比子に問われ、由比子は更になんと答えてよいのかわからなくなる。

 主婦業の方がもっと好き?

 子育てが楽しい?

 そんなこと、考えたこともなかった。