翔びたくて

はじめに | 1話 | 2話 | 3話 | 4話 | 5話 | 6話 | 7話

8話 | 9話 | 10話 | 11話 | 12話 | 13話 | 14話 | 15話

16話 | 17話 | 18話 | 

「翔びたくて・・・7」

「どうだった?今日の入園式。」

涼香の夫、元浩が帰ってくるなりそう聞いた。

案外、子煩悩なところがある。

「うん、なんとか無事終わったわ。さくら組になったの。」

「へぇ、さくら組かぁ。で、浩之は?」

「もう寝たわよ。明日から幼稚園だもの。今までみたいに寝坊はできないわ。」

「そうだよなぁ。いよいよ浩之も毎日通うところができたってわけか。」

それもその通りだ、と涼香は思う。

これから浩之はどこかに所属し、毎日、朝起きては出かけていくのだ。

その第一歩が幼稚園というわけだ。3年後には通う先が小学校になり、その6年後には中学校、そして高校・・・、やがては社会人となる。夫のようにサラリーマンとなったなら会社へ毎日通う。

今日からそれが始まったのだ。

母親の手を離れて幼稚園へ通う。今はまだ母親を恋しがるかもしれない。けれどもいつかは親から自立しようと、親の言うことをうるさがる時がくるのだろう。

母親と離れて自立への第一歩を踏み出す・・・、綾子のことばが思い起こされる。

「本当にそうなんだ・・・。」

ぽつりとつぶやいた。

寝室で寝ている浩之の寝顔をのぞいてきた夫がダイニングキッチンに入ってくる。

「本当にかわいいなぁ。制服もカバンもぴかぴかだ。お!菜の花のおひたしか。うまそう!」

「うん、それにほら、鰆を焼いたのよ。それから散らし寿司。」

「すっげー、イクラものってる。」

「うん、入園式だったからね。ちょっとだけお祝い。」

「ごめんな。早く帰って来れなくて。」

「いいのよ。そのかわり、今週の土曜は3人でどこかファミレスでも行きましょ。」

「いいな。お祝いのやり直しだな。」

「そうね。」

蛤のお吸い物をことりと元浩の前におき、涼香も座った。

涼香はほっと溜息をつき、夫元浩が「どうしたの?」と聞いてくれるのを待った。

元浩はうまい、うまいと料理を口に運ぶのに夢中だ。

わかっている。

こういうことは自分から話し出さなければ。

様子に気が付き「どうかしたのか」と聞いてくれるのではないか、などという期待はこの夫にしてはいけない。女友達とはちがうのだ。

「あのね、ちょっと今、考え込んじゃった。」

「何?なんかあったの?」

夫が散らし寿司を口いっぱいに頬張りながら聞く。

「あなたの一言でよ。考え始めちゃったの。『いよいよ浩之も毎日、通うところができたってのか。』って一言。」

「何?それがなんかしたの?」

ずずとお吸い物をすすりつつ、目だけ涼香の方へ向ける。

「うん、だからそれって本当なんだな・・・って。浩之、今日からずーーっと毎日どこかに通うのよね。小学校にいって、中学校にいって・・・。」

「ははははは!!定年退職するまでってか?」

「もう!真面目に聞いてよ。」

「聞いてるよ。だからそれがなんかしたの?」

「だってね、これってやっぱりすごいことなのよ。浩之の母親からの自立の第一歩なの。」

「まぁな。」

あいかわらず、せわしなく箸と口を動かしながら夫が相槌をうつ。

「浩之もそうしてだんだん私から離れて行くのかな・・・って思ったらちょっと淋しくなっちゃった。」

「離れてくって?」

「そのうち、だんだん母親と一緒にいるのなんか疎ましくなって、友達と過ごす方がよくなって、どんどん私から離れていくのよね・・・。」

「マザコンにでもなったら気持ち悪いだろ。」

「わかってるわよ!だからよ。だから淋しいって思うんじゃない。」

「だけど、おまえさぁ。浩之の幼稚園が始まるの、あんなに楽しみにしてたじゃないか。『これでやっと自由な時間が持てるわ。』とかなんとか言ってたぞ。」

「そ・・・それは・・そうなのよ・・・。」

涼香がぐぐぐ、とつまる。

「そうだよ。今までどこへ行くのも浩之と一緒、何をするのも浩之と一緒。『もう発狂しそうよ!!』とか騒いでたじゃないか。やっと少しだけでも自由な時間がとれるんだろ。喜べばいいじゃないか。」

「そう・・・なのよね・・・。」

涼香は考え込んだ。

思えば育児とはずっとこんな気持ちの連続だったような気がする。

1歳になり断乳した時のことを思い出した。

母親にしがみつき、大声を張り上げて泣き叫ぶ浩之を見ているとかわいそうなのを通り越して、腹立たしく思えた。

お願いだから泣かないでよ!!私だってつらいのよ!!と心の中で叫んでいた。

ついには根負けしてその晩おっぱいを飲ませてしまった。そんな自分に余計腹がたった。

おっぱいをひとしきり飲んだ浩之が泣きはらした顔をくいっと涼香にむけ、にっこり微笑んだ。あの時の気持ちは忘れられない。

苦しいような愛おしさがこみあげた。

こんなにちっちゃいのに、こんなにおっぱいがほしいのに、こんなに母親を求めているのに、何故断乳しなければならないのだろう?このまま一生おっぱいをあげたっていいじゃないか。本気でそう思った。

生まれたばかりの時、真夜中の授乳がつらかった。どこへ行くのもおっぱいの時間を気にしながらなのが嫌でたまらなかった。

美容院でゆっくり髪を切ってもらうこともできないのが腹立たしかった。

そんな全てのことがどうでもよくなった。うまく思い出せなくなった。

断乳はやめだ。

この子がもういいと言うまでおっぱいをあげよう。卒乳タイプでいこう!と思った。

次の日、母親に電話で一喝されるまで・・・。

「断乳よ!断乳!!ここで断乳するの!!」

「どうして?どうして断乳しなくちゃいけないの?お母さんは古いのよ。今はほしがっている間は与え続ける卒乳っていうのがはやりなのよ。」

「へぇ〜、今時の子は4歳、5歳になってからやっと歯がはえるの?」

「そんなこと言ってないじゃない!」

「同じことよ。今も昔も一年もたてば歯がそろってくる。いっぱいおいしいものを食べて大きくなんなさいって時期が来たってことなのよ。おっぱいばっかり飲んでる時期はおしまいってことなの。子どもの消化酵素も変わってきて、おっぱいより普通の食べ物に適してくるのよ。この時期。」

涼香の母は保健婦をやっていた。いまだに育児に関しては口うるさい。

「もちろん食事も与えるってば。」

「あたりまえでしょ!そういうことを言ってるんじゃないの。この時期、断乳するのが自然のことだって言ってるの。育児はね、はやりすたりじゃないのよ。自然の理にかなうように、自然にしているのが一番なのよ。」

「あんなに泣いている子を無理矢理おっぱいから引き離すのが自然なことだっていうの?」

「そうよ。物を食べられるようになったら自分で噛んで食べる。それが自然なことなのよ。2歳3歳のおっきい子になってもおっぱい飲んでいる方が不自然だと思うけど?第一、浩之が自分からおっぱいをやめる時ってどんな時よ?誰かから『そんなに大きいのにまだおっぱい飲んでいるの?』なんて言われて恥ずかしくなってやめるってこと?それこそ浩之がかわいそうじゃないの。」

涼香は憮然としながらも母のことばにどきりとする。

母つづける。

「おっぱい飲むってそりゃすばらしいことでしょう?その特別な母親とのつながりを最後に恥ずかしいとか、いけないことなんだ、とか罪悪感を持って終わらせるなんて、それでいいの?あなたは。」

まったく!血のつながった親子となると容赦がない。

育児学級の先生だったら卒乳も認める人が多い中、こうもはっきり批判されては返すことばもない。

母の言うことは納得できるし、自分たちを心配して言ってくれているのもわかる。

「わかったわよ・・・。じゃぁ今晩またやってみる・・・。」

しぶしぶながらもそう答えた。

「そうそう。それでいいの。とにかく騙されたと思ってやってごらん。絶対後であれでよかったって思えるから。

お母さんもね、何人も断乳した子を見たけど、みーんな断乳した後、精神的にぐっとたくましく成長するのよ。こればかりは経験してみないとわからないのよ。

そうしてね、母親も学ぶのよ。子どもを成長させるってどういうことか、自立させるってどういうことか。

子どもが自分から離れていくって感じる瞬間はつらいものだけど、その後必ず思えるのよ。『これでよかったんだ』って。子どもの成長を目の当たりにすると、今まで自分の知らなかった世界が広がるからね。」

「そんなもんなの?」

少し励まされた気分になってくる。

「そう、そんなものよ。断乳は初めて子どもの自立、成長を経験する機会なのかもしれないわね。ここでしっかり学びなさい。この後の子育てでずーーーっとそれが繰り返されていくんだから。」

「ずっと?」

「そう、ずっと。子どもが幼稚園に入る時、卒園する時、母親と一緒にお風呂に入らなくなる時、後をおいかけてこなくなる時、その瞬間は淋しいけどね、すぐにこれでよかったんだってわかるのよ。一山超えて子どもが成長したって実感がわくからね。」

電話を切る時、いい?今晩は断乳よ、ともう一度強く念押しされた。

「おかわり!」

「え?」

突然、目の前にお椀を突きつけられ、ただぼうっとそれを見た。

「おかわり!あるんだろ?まだ。蛤のお吸い物。これ、俺、大好きなんだ。」

「あ・・ああ。」

涼香はやっと現実に返った。

「うん、あるわよ。」

そう言いながらお椀を受け取り席を立つ。

お玉でお椀によそいながら言った。

「蛤はもうないけどね。」

えええ!とのけぞる夫の声がする。

明日から。

とにかく明日から一つ新しい育児の生活が始まるのだと思った。

自分も新米ママとして幼稚園に入園したのかもしれない、と。