翔びたくて

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「翔びたくて・・・5」

「それでね、それでね、お料理している子はね、本格的にクッキーを作っていたのよ?算数やっている子もいたし、もう、本当に驚いちゃった!」

その夜、涼香は早速、綾子のところに電話をし、つばさ幼稚園訪問の報告をした。

「へー、そんなに気に入ったんだ。そりゃよかった!」

「うん、園舎も立派だし、園庭は広いとまで行かなくても、きれいで遊具も整っているかんじだったわ。綾子、ありがとう!いい所を紹介してくれて!」

「そんな、私は別に紹介したってわけじゃないわよ。」

「同じことよ。綾子がいなければモンテッソーリ教育なんて知らなかったもの。」

「先生達はどうだった?」

「うん、なんか、皆、静かで優しげで上品そうなかんじだったかな?これは綾子とは違うか。」

「あのねー!私だって職場では静かで優しげなの!!」

二人はゲラゲラ笑いあう。

「だけどさぁ・・・。」

ひとしきり笑いあったところで涼香が真面目な口調に戻る。

「何よ?」

「浩之はついていけるかなぁ・・・?」

「どうして?」

「だって、あんな算数なんてできるかしら・・・?やる気になるかしら・・・?」

「なによ、本間先生の説明で納得したんじゃなかったの?」

「納得はしたわよ。子どもの内側には教師がいるってことでしょ?その時期がくればその教師が導いてくれるんでしょ?」

「まぁね。」

「でも、浩之の内側にはせいぜいイタズラの先生くらいしかいそうもないんだもん!」

ははははは!と電話の向こうから笑い声がかえってくる。

「笑い事じゃないわよ!綾子!」

「大丈夫だって!」

「そうかなぁ...、ひらがなで何か書いている子もいたし、幾何図形みたいなのやってる子もいたのよ?ねぇ、ねぇ、綾子、あれって全員がやるの?お部屋にあるものぜーーーんぶやらなくちゃいけないの?」

「そんなことはないわよ。」

「え?じゃ、全然、やらない子もいるの?」

「そんなことはないわよ。」

「ねぇ、じゃ、どんな子がああやっていっぱいいろんな活動をするの?どうしたらいいの?」

「もう、やぁねぇ。涼香ったら入る前からそんな心配。」

「だって、わからないんだもの。本当に・・・。浩之がどんな幼稚園生活を送るか、知りたいのよ。」

「うーん、そうね・・・。あのね、モンテッソーリ教育の幼稚園課程ではね、5つの分野に分かれているの。」

「5つの分野・・・?」

「そう、まぁ、小学校でいえば、国語、算数、理科、社会ってとこだろうけど、モンテッソーリの幼稚園では5分野に分けることができるのよ。」

「へぇ・・・。」

「日常生活練習、感覚、数、言語、文化の5つがあるのよ。」

「え?何?もう一回言って。」

「うん、まず、日常生活練習。これはね、この前、私がヒロ君にしてあげたみたいな、お水の開け移しとか、靴を脱いだりはいたりとか。」

「ああ、うんうん。子どもがやりたくてしょうがないことばっかりね。ボタンをかけたりはずしたり?」

「そうそう。それから、涼香が見たと言ってたクッキーを焼いたりとかね。あとは例えば縫い物をしたり、編み物をしたり、お掃除をしたり、お洗濯をしたり、そんなのがこの日常生活練習に入るの。」

「なるほど!本当の日常生活でやるような事が入ってくるのね。」

「う〜ん、ま、だいたいそんなとこかな。」

「それからそれから?」

「それから感覚」

「かんかく?」

「そう、五感覚の感覚よ。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。この五感覚を洗練させるための練習のものなの。」

「へぇ・・・。そんなのがあるの・・・。」

「そう。それから、数、これはまぁ、算数のことよね。それから、言語。文字の読み書きとか、まぁいわゆる国語ってヤツ?」

「なるほど、数と言語ね。」

「そうそう。そして文化よ。」

「文化って?」

「これはね、幼稚園課程においては言ってみれば、算数と国語以外の全部ってかんじかな?音楽、美術もここに入るし、理科とか社会とか・・・。」

「理科?!社会?!」

「あ、うん、でも、いわゆる一般的な小学校でやってる理科や社会とはちょっとアプローチのしかたが違うのよ。地図で国の名前を覚えたり、国旗を作ったり、磁石でくっつく物とくっつかない物を調べたりね。」

「へえ!」

「モンテッソーリの小学校になると、それぞれ、地理とか化学とか、生物とかって教科に分類されていくんだけど、幼稚園課程での子ども達はまだそこまでの発達段階ではないでしょう?子どもの興味に答えていく、という形で文化の中にまとめられているの。」

「ふぅ・・・ん。日常生活練習、感覚、数、言語、文化・・・ね。」

「そう。それぞれの分野にそれぞれの何にも変えがたい重要性があるんだけど、幼稚園課程のヒロ君にとって一番大切なのはなんといっても日常生活なのよ!」

「そうなんだ。」

「そう!生命衝動が根底にあるから、靴を自分ではきたがったり、お箸を使いたがったりするでしょ?それってね、ヒロ君にとってはできなかったことができるようになる!とか、わからなかったことがわかるようになる!とか。自分で自分を高めていくための活動なの。

自分でむずかしいことに取り組んでできるようになる。つまり困難を克服する喜びを知るということはね、このままずーーーーっとつながっていくのよ。」

「つながっていく?」

「そうよ。この人生の初めにおいて、ヒロ君は自分でできない事をできるように練習する、という自分を高める活動に取り組むわけじゃない?できるようになれば、次から次へともっとむずかしいもの、もっとむずかしいもの、と取り組んでいくの。それがある年齢になれば、自然に知的欲求へと移行していくのよ。」

「なるほど!日常生活練習が一番の基本になっているってわけね。日常生活練習をたくさんやっていれば、自然に数、言語に移行していく、ということなのね。」

「そう!そうなのよ。それに、それだけじゃないの。日常生活練習はね、人間の知的活動の根元を作るものでもあるの。」

「知的活動の根元・・・?」

「うん、まぁ、それはまた今度、会った時にでも話すわね。」

「ええ?!ちょっとぉ!のってきたのに!さわりだけでも教えてよ。」

「とにかくさ。涼香。忘れてほしくないのは、この前話した生命衝動の話よ。ヒロ君は自分の力で生きていけるように、自分の命を自分で守れるようになるために、日々、自立への道を歩んでいるってこと。日常生活にあるような練習、全て、お料理もお掃除も全てよ。これはヒロ君が自立して生きていけるようになるためのとっても重要な活動だってことなの。」

「大人になれば、めんどくさいだけの作業なのにね。」

「そうっ!その通り!大人にとってはね。でも、子どもにとってはこれらの練習ができるかできないかってことは、死ぬか生きるかの大問題ってことなのよ。」

「死ぬか生きるかぁ?!!」

「そうよぉ!自分で自分の命を守っていけるかどうかってことなんだもの!」

「なるほどね・・・」

涼香は黙ってことばの意味をゆっくり確かめてみた。

「でも、まぁ、よかった!幼稚園選びに関しての涼香の悩みは消えたってわけね。」

「え?あ・・・うん、まぁね・・・。」

涼香は綾子が話しを区切って、電話を切ろうとしているのがわかった。

でも・・・。

話したいことがあった。もう一つだけ。

ことばをあやふやにして、綾子がどうしたの?と聞いてくれるのを待つ。

「どうしたのよ?急に静かになっちゃって。まだ何かあるの?」

案の定、親友は涼香の気持ちを汲み取って聞いてくれる。

「あ・・・うん・・・。ちょっと・・・・ね・・。」

突然、沈んだ声になり綾子を驚かせる。

「ど・・どうしたのよ?」

「うん、あのね・・・。まぁ、大したことではないんだけど・・・。」

涼香は池谷と呼ばれていた母親のこと、砂場での顛末を綾子に話した。

「それでなんだか、とっても暗い気持ちになっちゃったの。私も慌てて浩之を叱っちゃったけど、浩之にも申し訳なくって・・・。」

「なるほど・・・。」

親友は電話の向こうで真剣に聞いてくれる。

「ねぇ、綾子、こういうことってよくあるの?あの池谷さんって人の子と、同じクラスになったらどうしよう・・・?それを考えると暗くなっちゃうのよ・・・。」

「う〜ん・・そうねぇ・・・。私も母親になったことはないからよくわからないけど、いろいろあるみたいね。お母さん達から時々聞くわよ。いろんなトラブル。」

「ええっ?!!どんな?どんな?」

「うーん、やっぱり、ひっかかれたとか、噛み付かれたとか?家に遊びに来た時、お気に入りのオモチャを持って行かれちゃった・・・なんて相談もあったかな?」

「ひ・・・浩之、大丈夫かな・・・・?」

「さぁ?ケンカくらいはするんじゃない?」

「ひっ!他人事みたいに言わないでよっ!!」

思わず電話口で大声を出してしまう。

「ねぇ、涼香。気持ちはわかるけど、でもこれだけは言えると思うよ。ヒロ君はね、今、初めて母親から離れて、同年代の子どもの集団に入るという自立の第一歩を踏み出すの。いい?母親から離れるという経験そのものがすでにものすごーく重要なのよ。」

「だから?」

涼香は何故綾子がそんな話しをするのかわからずに、なげやりな相槌を打った。

「親から離れて、自分で友達と関わって、社会のルールを知ったり、責任を果たす意味を経験したりし始めるわけでしょ?ケンカするそのこと自体もとっても重要なのよ。」

「そう・・・ね・・。」

「子どもが一人でできるように、自立できるように大人は助けてあげるべきじゃない?嫌なことをされたら『やめて』って言えるように、貸してほしかったら『貸して』って言えるように、仲間に入れてほしかったら『入れて』って言えるように、ただ、自分の主張だけしていたら友達はできないとか、仲直りしたら気持ちいいとか、そのいい気持ちを味わうには『ごめんなさい』って言えばいいとか。

そういうことをね、経験するの。親から離れて、自分で友達と関わってみて、不愉快だったり、楽しかったり、嬉しかったり、悲しかったりしながら社会性を、自分の心を育てていくのよ。」

「それは、わかるわよ。育児雑誌なんかでも読むわ。最近の親は子どもにケンカをさせないって。痛みを知らずに育ってしまうって子どもの心の成長を心配する記事、読んだことある。つまり、子どもは子ども同士、子どものケンカに大人は口をだすなってことでしょ?」

「うーん・・・、そうね。それともちょっと違うかな?」

「どう違うのよ。」

「大人は口をはさむなってこととはちょっと違うの。だって彼らはまだ発達の途上で、そうやって同年齢の子ども達と関わりながら学んでいくわけでしょう?自分たちで問題を完璧に解決していくことはできないわね。」

「そりゃ、そうよ。」

「だから、大人の助けが必要なの。お友達の痛みに気づけないなら、気が付くように助けてあげたり、『やめて』って言えない子どもには言えるように助けてあげたり。

ただ、一つ言えることは、大人が代わりに問題を解決してしまってはいけないってことなのよね。」

「うん、綾子の言うことはなんとなくわかる。でもさぁ、親同士の付き合いもあるし。ついつい自分の子を叱っちゃったりするのよね。あ〜あ!あの池谷さんって子と同じクラスになりませんよーーに!!」

「ふぅむ・・・。そうね、涼香の気持ちはわかるわよ。誰だって苦手だと思っている人と関わりあいたくないものね。それでも、同じクラスになるかもしれないじゃない?」

「もうっ!不吉なこと言わないでよっ!」

「ごめんごめん。でも、もし仮に池谷さんと違うクラスになったところで、きっと誰か他に苦手だな、と思う人と一緒になるかもしれないわよ?だからさ、見る観点を変えた方がいいって言いたいのよ。」

「観点を変える?」

「そう。涼香はヒロ君の成長に焦点をあてて幼稚園生活を見ていくべきなのよ。その砂場でのこともね。ヒロ君の成長という観点から見るの。」

「どういう意味?」

「今度また同じような状況が起きた時、涼香はヒロ君にどうしてほしい?どうあってほしいの?」

「え?うーん・・・そうね。『順番で使おう。』って言えるとか?」

「そう!そうよね!!そんな風に成長していってほしいよね?もし、今度、誰かがヒロ君のオモチャをとろうとしたら、『ごめんね。今、使っているの。もうちょっと待っててね。』と言って、実際、後で譲って上げられるとか、そうでなければ『いいよ、先に使っても』と言えるとか?」

「おおっ!それはすばらしい!!でも、そんなことありえないわよ。」

「どうして?涼香は今日、ありえないと思うことをたくさん見てきたんでしょ?小さい子がお料理したり、算数したり。」

「それは・・・。」

「同じことよ。子どもは大人が思っているよりずっとすばらしい可能性を秘めているの。きっとヒロ君もつばさ幼稚園でそんな子に成長していくわよ。」

そうだろうか・・・?本当にこのいたずら坊主がそんな立派なお兄さんになれるのだろうか・・・?

涼香はまた、ふと黙り込み考えた。

「大丈夫、きっとそんなお兄ちゃんになれるわよ。」

綾子が涼香の気持ちを見透かすかのように付け加える。

「だからね、その池谷さんって子との関わりだって、ヒロ君にとって大切な機会だったってことよ。要はその時、大人がどうやって関わってそれぞれの子どもにどうしたらいいのかを示すかってことじゃない?」

「そりゃ、そうなんだけど、池谷さんってちょっとひどくない?自分の子どもしか見えてないってかんじ。だって自分の子がそもそも浩之のシャベルを取ろうとしたわけでしょ?」

「そうね、その通りならその人、ちょっと変わってるわよね。」

「でしょ?でしょ?やっぱりひどいわよね!」

涼香は綾子の同意を得て、初めていきおいづいた。

「でも、それは涼香の問題じゃないのよ。」

綾子は冷やかにぱしりと言い放つ。

「それは、その池谷さんって人の問題なの。彼女は彼女の子どもが成長していくための手助けの方法をその時誤ったってことなのよ。涼香のように。」

「私のように?!!」

「そうよ、涼香だってヒロ君に叱るべきじゃなかったのに、叱っちゃったんでしょ?」

痛いところをついてくる。涼香はぐぐぐ・・と黙る。

「涼香は母親同士のつきあいを気にしてついついヒロ君を叱っちゃうんでしょ?」

「・・・・・・・・そうよ。」

「そこを自覚してこれから気をつければいいじゃない?今日のことをクヨクヨ悩むことはないわ。この次から気をつければ。

その池谷さんって人は確かにもう少し回りの状況も冷静に目に入ると、もっと子どもにいい援助ができるようになるわよね。でも、それはあなたの問題じゃないわ。涼香が気にする必要はないのよ。」

「そ・・・そりゃそーね。」

涼香は綾子のお説教に素直にうなずいた。

「だからね、幼稚園とはそもそも子どものより良い成長を願って選び入れるところなんだから、あまりその他の事にまどわされないで、常に自分の子どもの成長に焦点をあてて見ていくべきなのよ。」

「うん・・・・・。」

それから二人は一言、二言ことばをかわし、今度また近い内にに会おうなどと約束して電話を切った。

涼香は綾子のことばを一つ、一つ、心にとめようと思った。

これからの浩之の幼稚園生活、期待も不安もある。

それでも、彼の成長を願って過ごしていこう、と心に決めた。

4月のよく晴れた日、まだブカブカの制服をきた浩之を連れて涼香はつばさ幼稚園の園門をくぐった。