翔びたくて

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「翔びたくて・・・4」

7月のよく晴れた日、涼香はH市のつばさ幼稚園の見学会に出かけた。

紺のスカートに白い半袖のブラウス、浩之にも紺の半ズボンを新しく買い、それをはかせて行った。

チラリ、チラリと回りが気になり見回してみる。

似たりよったりの服装の親子連ればかりだ。

副園長だと自己紹介した30くらいの若い男の先生について、皆、ぞろぞろと保育室を見学してまわった。

「子ども達は作業しておりますので、その邪魔にならないように、なるべく目をあわせぬよう、また、決して話しかけないようにお願い致します。」

見学前にそう注意された。

作業?

目をあわせぬよう?

なんのことやらよくわからないまま、保育室を見学する。

子ども達は皆、熱心にそれぞれが違う活動に取り組んでいた。

ある子はエプロンをつけ、テーブルを石鹸で洗っている。

ある子は世界地図のパズルに取り組み、また、ある子は算数の教材らしきカラフルなチップを使い数えている。

涼香は算数をしている子が何をしているのか、その手元を目をこらしてみつめた。

―――げげっ!2511+3167??!!4桁の足し算してるの?!―――

驚きに目を見開いた。

「すごいわね・・・。」

「あの子もほら、ひらがなを書いているわよ。」

友達同士で来ているのだろうか、ヒソヒソ話しが後ろから聞こえる。

トイレ、図書室、ホール、園庭とひととおり回り終え、最後に図書室に入り、皆、子ども用の椅子に腰掛けた。

「こちら空いていますか?」

うっすらと茶色にそめたサラサラ髪の母親に涼香は声をかけられた。

「あ、どうぞ。」

慌てて、足元の荷物を引き寄せ、着席しやすいように促す。

お下げ髪の女の子を連れたその母親は会釈して横に座った。

「ママぁ〜、ねぇ〜、お外に行きたぁいぃぃ。」

浩之が甘えた声でおねだりする。

「もうちょっとよ。待ってて。」

「やぁだぁ!」

大きな声を出す。

「しっ!静かにして!」

涼香は浩之をにらんだ。

「退屈しちゃうわよね。」

となりに座った女性が優しげに声をかけてきた。

「もう、恥ずかしくて・・・。」

涼香が恐縮しながら言う。

「ううん、男の子ですもの。元気がいい方がいいですよ。若、早く来ればいいのに。あきちゃうわよね。」

「若?」

「そう、さっき案内してくれた副園長先生、父兄の間ではこっそり『若』と呼ばれてるんです。彼のお父さんが園長先生なんですよ。だから、園長先生は『殿』。」

涼香はぷっとふきだした。

ふふふふふっと二人で声をころして笑った。

「お兄ちゃまかお姉ちゃまがいらっしゃるんですか?」

やっと笑いをこらえ涼香が聞いた。

「ええ、もう小学生ですけどね。上は男の子なのでやっぱり大変でした。」

涼香は大人しそうにちんまり座っている女の子に目をやった。

女の子は恥ずかしそうに笑う。

「こんにちは。お名前は?」

「しゃえきいほでしゅ!」

「え?え?なんて?」

聞き取れずに涼香が聞き返す。

「梨穂です。佐伯梨穂。私は佐伯由比子と申します。よろしく。」

佐伯と名乗った母親が改めて、頭を下げる。

その物腰に落ち着いた品の良さを感じさせられる。

「あ、私は石原涼香です。この子は浩之です。こちらこそよろしくお願い致します。」

早速、友達ができそうで涼香は嬉しかった。

母親同士が仲良くなったせいか浩之と梨穂もなにやら、笑いあいながらコミュニケーションを取り始めた。

「そうね、まぁ、中の下ってところかしらね。そんなに悪くもないと思ったわ。」

「ええ?中の下ですか?私なんて子ども達が計算問題やっているところを見ただけで驚いちゃって。」

「うん、私も!」

ななめ後ろから会話が聞こえてきた。

何となくその内容に涼香と由比子は耳をかたむけた。

「そうね。でも、モンテッソーリをしているんだからあのくらい当たり前よ。それに勉強をするからいいってものでもないでしょう?」

「ああ、うんうん。」

「もっと、こう・・、なんていうのかしらね。子ども達が開放されているべきなんじゃないかしら?」

「開放・・・。」

涼香はチラリと後方を盗み見た。

きれいにセットされた髪で、この暑い中スーツを着込んでいる。

脇には一直線に髪を切りそろえた男の子が座っていた。

その女性が弁をふるっている。

回りには4〜5人の母親達がとりまいているようだった。

「わぁ、さすが池谷さん。開放かぁ。」

「いつも子どものためにってことを一番に考えてらっしゃるものねぇ。」

グループで来ているのであろう。小さな声が段々、大きくなってきていた。

涼香は思わず、となりの由比子に聞いた。

「あの・・・、あの方も上のお子さんがいらしてるんですか?」

「さぁ・・・。私は知らない方ですけど・・・。なんだかお詳しそうですね。」

こそこそと話している時にドアが開き副園長が入って来た。

「お待たせ致しました。それでは少しお時間を頂いて、当幼稚園のことを説明させて頂きたいと思います。私はつばさ幼稚園で副園長をしております本間五郎と申します。」

きっと、見た目よりは年上なのかもしれないさわやかそうな笑顔をたたえ、こなれた口調で挨拶をする。

「えー、私共の幼稚園ではご承知かと思いますがモンテッソーリ教育を導入しており、これが教育の柱となっております。モンテッソーリ教育という名前をお聞きになったことのある方おられますか?」

数人が手をあげる。

「モンテッソーリ教育はイタリア初の女医であるマリア・モンテッソーリにより作られた教育法であります。

今日、皆さんがごらんになったように、子ども達のクラスは年少児から年長児までが一緒にいる縦割りとなり、子ども達は教室内で自由に自分のやりたいものを選び活動します。

マリア・モンテッソーリは『子ども達はそれぞれが自分の中に教師を持っている』と言いました。どうです?なんだか不思議なことばではないですか?皆さんは自分の内側に教師がいるなんて感じたことがありますか?」

本間は話術がたくみで、涼香もまわりの母親達もその話しに引き込まれていった。

「皆さんのお子さん達はきっと生後8ヶ月くらいでハイハイを始め、一年くらいで歩くようになったかと思います。その時にどうでしょう?皆さんはご自身のお子さんに歩き方を教えましたか?ハイハイのしかたを教えましたか?『はい、今日が誕生日ですよ。今日からはハイハイしないで歩きましょうね。』などと言ってお子さんに歩くように命令した方はいらっしゃいませんか?」

母親達は思わずクスクス笑った。

「そうでしょう?おかしいですね。いるわけないですよね。もしいたら、『バカ母ここまで来たか!』の笑い話ですよね。」

今度は皆、どっと笑う。

「では、何故、どの子も何も教えないのに、ハイハイをやめ、歩く練習を始めるのでしょうか?」

皆、笑うのをやめ、真顔になって話しのつづきを聞いた。

「そうなんです。それがモンテッソーリの言うところの“子どもの内側に教師がいる”ということなんです。子ども達は誰に教えられなくても、その時期がくれば、自ら歩くということに興味を覚え、一生懸命、そして嬉しそうに歩く練習をします。

さて、はいはいをして、歩く練習の次は何が来るんでしょうね?皆さんも今日の日まで、また現在も悩まされていませんか?どうしてもお箸で食べたがったり、ボタンを自分でとめたがったり、牛乳をコップに注ぐのをやらせろ、とか。どうです?思い当たるでしょう?それらの全ては、子どもが母親の助けがなくても一人で生きていけるように、自立するための練習なんです。そう、歩くということを誰も教えないのに練習し始めたのと同じで、子ども達は自分で自分のことが何でもできるようになるための練習を次から次へと始めるんですね。これができるようになったら、次、もっと、もっと、というようにです。」

なるほど、綾子の話と似ているわ、と涼香は感心しながら聞く。

「そして、人間の子ども達は誰が教えるでもなく、ある時期が来るとその知性を伸ばすことに興味を持ちます。具体的にいうなら、文字とか、数とかですね。」

涼香はさっきクラスでみた、四桁の足し算をしていた子を思い出した。

「モンテッソーリ教育は決して早期に始める英才教育ではありません。子ども達はその時期がくれば自然と数に興味を持ち、また文字に興味を示すのです。ちょうど一歳前後で歩くことを始めたのと同じようにです。

皆さんが『今日から、一歳だから歩きましょうね。』などと歩くことを強要しなかったように、『あなたはまだ一歳じゃないから歩かなくていいのよ。』などと言って歩くことを止めなかったように、算数や、文字の読み書きもまた同じなのです。

まだ興味がない子に教えるのも、興味があるのに、『学校に行ってから!』などと言って止めるのも実は滑稽なことだと思いませんか?

子どもはいつそれを学ぶのにふさわしいか、子ども自身で知っているのです。子どもの内側には教師がいて、子どもを導いてくれるのです。

今日、皆さんがごらんになったとおり、子ども達はそれぞれの興味に従い、料理をしたり、掃除をしたり、また、文字を書いたり算数をしたりします。

それは、子どもがその時、自分を成長させるために一番必要なものを自ら選び取っているということなのです。」

涼香と由比子は園庭で話しながら子ども達を遊ばせていた。

説明会は散会となり、それぞれ帰る前に自由に園庭で遊ばせてよいとのことだった。

「本間先生、お話し上手ですね。私、感動しちゃった。」

「そうですよね。私も若の話しを聞くといつも反省させられるの。」

「ええ?佐伯さんが?だって梨穂ちゃんあんなにいい子なのに!」

「まぁ、確かに上のお兄ちゃんと比べたらおとなしいかな?でも、きかない時はすごいのよ。今朝もトーストにジャムぬるっていってお兄ちゃんのまでぬっちゃってね。上の子は卵サンドにしたかったのよ。それで、私、3枚もジャムトースト食べるはめになってしまって・・・。」

涼香はおかしそうに笑った。

なんとなくの偶然の出会いではあるが、由比子とはかなり気が合いそうだった。

「あ、そうだ!入園願書もらってこなくっちゃ!佐伯さんはもうもらった?」

「ええ。」

「ちょっと頂いてきますね。」

涼香は園庭に面している事務室の窓口に向かった。

事務担当の愛想のよさそうな中年の女性が願書を手渡してくれた。

「500円になります。願書受付は10月1日からです。希望者が多い場合は抽選で決めさせて頂きますのでご了承下さい。」

涼香がぺこりと頭を下げた時、砂場の方から大きな子どもの泣き声がした。

振り返ると説明会の折みかけた、グループで来ている母親達のリーダーとおぼしき女性の子どもが泣いていた。

前髪を一直線に切りそろえた坊ちゃん刈りが印象的でよく覚えていた。

瞬間、涼香はぎょっとした。

その泣いている男の子の隣に浩之が立っている。

泣いているその理由と無関係には見えなかった。

涼香は慌てて砂場に向かったが、一足先にスーツを着込んだ泣いている子の母親が子どもの脇に行き、なにやら話し始めた。

「すっすみません!うちの子が何か!」

慌てて涼香が駆け寄る。

「あら、お宅のお子さんですか?」

スーツの女性が振り返る。

涼香は見た目にも気の毒なほど慌てていた。

「浩之ッ!何をしたのッ?!!」

いきなり語調もきつく息子を問いただす。

「あ、いいんですよ。ちょっとお宅のお子さんがうちの息子を突き飛ばしたものですから、それで息子が泣いてしまって。」

口調は丁寧だったがはっきり言う。

「も・・申し訳ありません!!」

涼香は思いっきり頭を下げた。

坊ちゃん刈りの子は泣きながら浩之の持っているシャベルを取ろうとする。

「だめっ!!」

浩之が取られまいとシャベルを引く。

「まぁ、正志ちゃん、違うでしょ?返してってお言葉で言わなければ・・・。」

涼香はますます慌てた。

「返しなさいっ!浩之!」

「やだっ!!」

浩之はシャベルをきつく握りしめて背中を向ける。

「返しなさいッッ!!」

涼香は

シャベルを取り上げた。

今度は浩之がわーんと大声で泣き出した。

そんな息子を無視して涼香はすみません、すみませんと誤りながらシャベルを正志と呼ばれたその男の子に渡した。

「池谷さん」と呼ばれ、スーツの女性は声の方を振り向いた。

「あ、ごめんなさい。今行きます。」

軽く涼香に会釈をして、池谷と呼ばれた女性は砂場を去った。

このまま浩之をおいておいたら、間違いなく、また正志のシャベルを取り上げようとする。

涼香はわんわん泣く浩之を無理やり引っ張って由比子の立っている所へ戻っていった。

「もう、これだから恥ずかしくて・・・。」

涼香は心底困ったという口調で由比子に訴えた。

「あら、気にすることないわよ。子供同士のケンカなんて。自然なことでしょう?相手の方だって気にしてなさそうだったじゃない。」

「そうだといいけど・・・。」

涼香はなんとなくの不安を抱いた。

「相手のお子さんのシャベルを取りあげた上に突き飛ばすなんて・・・。」

情けなさそうに言い、それからもう一度めっと浩之をにらむ。

「え?」

由比子が不思議そうに聞き返した。

「そんな風ではなかったけど?」

今度は涼香が「え?」と聞き返す。

「私、ここからヒロ君を見てたけど、あの子がヒロ君の使っているシャベルを取ったのよ。それで、ヒロ君がシャベルを取り返して相手の子を押したの。相手の子は転んだわけじゃなかったけど、きっと驚いちゃったのね。泣き出してしまって・・・。」

「え・・・・・・・。そうなの・・・・?」

涼香はとまどった。

泣いている浩之に視線を落とし、それから園庭の向こう側で談笑している池谷という女性を見た。

正志はすでに砂遊びをやめ、母親のまわりにまとわりついている。何かおねだりをしているようだった。

浩之に対しての何とも気まずい罪悪感と正志の母親に対しての疑念が、例えようもない嫌な気持ちを作り、胸一杯に広がった。