翔びたくて

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「翔びたくて・・・2」

「あ・・ううう・・・」

苦笑しながら涼香がうめく。

「そんなこと・・・あったっけ・・・?」

恥ずかしそうに綾子をみる。

「ははは!本当に忘れてたの?」

「いや・・・覚えてる・・。うん、確かに・・。」

上目づかいに綾子を見る。

二人は顔を見合わせ、そして笑いあった。

「ところでなぁに?相談って。」

綾子がフォークの先にガトーショコラをちょんとのせ、舌先に運びながら聞いた。

「ああ、それそれ。実はね。」

涼香は正座をし、真剣な面持ちで綾子にむかった。

「幼稚園のことなのよ。」

「幼稚園?」

「うん、もうそろそろ決めないといけないの。どこの幼稚園にするか!」

「ああ・・・・。」

「ああじゃないわよ。ね?どこがいいと思う?」

「ど・・・どこがって言われても・・・。」

「だって綾子の勤めている幼稚園は都内で、とてもここからじゃ通えないし。ここら辺には5つくらい幼稚園があるのよ。それでね、」

つづけようとした時、ガタンッ!と音をたててミルク・ピッチャーがテーブルから落ちた。

ブルーグレーのラグの上に白い液体が飛び散る。

浩之がしまった、という顔を涼香に向けていた。

「ああッ!!またあ!!もうッ!!ヒロ君ったら!!」

涼香の眉がつりあがる。

「もうッ!!このラグ買ったばかりなのに!!」

「まぁまぁ、涼香。」

綾子が手元にあったティッシュ・ボックスからティッシュをしゅっしゅっと2〜3枚抜き、こぼれたミルクに押し当てた。

「ほら、雑巾、雑巾!」

「あ・・・ああ、うん・・」

涼香は促され慌てて立ち上がる。

「もおっ!イタズラばっかりして!!」

浩之をにらみつけながら雑巾を急いで綾子に手渡す。

「ほれ!大体おちたよ。このラグ洗濯する?」

「あ・・そうね・・・。ごめん、綾子」

「いいって、いいって!」

綾子と涼香はテーブルを動かし、ラグをたたもうとした。その時・・・。

カシャーンと鋭いガラスが割れる音がキッチンからした。

慌ててキッチンに行ってみると浩之のまわりに割れたガラスとグラニュー糖が飛び散っている。

「浩之ッ!!」

涼香のどなり声。

「なんてことするのッ!!何回言えばわかるのッ?!!」

わーんと浩之の泣き声が涼香のどなり声と重なった。

「掃除機だすよ〜?」

のんきな綾子の声は涼香の耳には届いていない。

「あれほど、イタズラしちゃいけないって言ってるのに、何回言えばわかるのッ!!シュガーポット割れちゃったのよ?!!どうするの!!」

わんわん泣きつづける浩之だが涼香の怒りはおさまらない。

ガーコガーコ掃除機をかける音を後ろに涼香はどなりつづけていた。

「わかった?!!もうぜーーったいイタズラしちゃだめよっっ!!」

怒るだけ怒ってやっと涼香は大泣きする浩之の手を離した。

「ごめんね、綾子」

綾子はとっくに掃除を終え、リビングに戻りのんびりコーヒーとケーキのつづきを楽しんでいた。

「ううん。ほら、コーヒー冷めちゃったよ。飲んで、飲んで。」

涼香は促されるままにコーヒーに口をつける。

浩之は泣き続けている。

「かーっと来てる時は甘い物がいいんだってよ。精神を沈静させるんですって。ほら、ケーキ食べなよ。」

それもまた、言われる通りにチョコーレートのかかったケーキを一口、口に運んでみる。

「落ち着いた?」

綾子がちらりと涼香を見る。

「もう!!聞いてよ綾子!!一日中この調子なのよ?!!」

やっと親友と話す気になった涼香に綾子は答えず、立ち上がって泣き続ける浩之のもとへ行く。

「ヒ〜ロ君、お姉ちゃんと遊ぼ!」

綾子の語りかけに浩之は一際大きくワアアッと泣き声をあげ、かぶりをふった。

「見て、おもしろいよ〜」

浩之の背後でチョロチョロとかわいらしい水の音がした。

いつの間にやら綾子は小さなおままごとのようなかわいらしいセットを用意していた。

それはガラスのピッチャーに淡いブルーの色水が入ったものと、それを注ぎいれるためのガラスのコップだった。

綾子はそのピッチャーの色水をゆっくり楽しそうにコップに注ぎいれていた。

泣いていた浩之がグスンひっくと泣きやみながら綾子の手元を見入った。

綾子は無言のまま何度か繰り返す。

ついに浩之は自ら綾子のもとに歩みよっていった。

そっと綾子はピッチャーを浩之に委ねる。

「ほら、きれいな音ね・・・。そうそう、そこをそっと持ってね。」

浩之は真剣な面持ちで水をグラスに注ぐ。

「そう、この線までお水が入ったらストップするのよ。上手ねぇ、ヒロ君。」

優しくことばをかける。

「ガラスはね、落とすと割れてしまうから、音がしないようにそぉっと置くのよ。そう、そう、上手・・・」

扱いをのみこんだ浩之のもとを綾子はそっと離れた。

さっきまでの喧騒がうそのように静かな空気が流れ出した。

チョロチョロと水が注がれる音だけがする。浩之の顔は真剣だった。

涼香は戻ってきた綾子をまじまじと見た。

「すっごーーい・・・・・。すごいね!綾子、さすがプロ!魔法をかけたみたい!!今、大騒ぎして泣いていた子が、あんなに静かに・・・!!信じられない!!」

「へへっ、そう?ありがと。でもね、特別なことをしたわけじゃないのよ。ヒロ君はね、もともとああいうことがしたかっただけなの。」

「え?浩之がしたかった?」

「そうよ、だからミルク・ピッチャーに手をのばしたり、シュガーポットをとろうとしたりしたのよ。」

「どういうこと・・・?」

涼香がわからずに聞く。

「つまりね・・・・。そう、これも生命衝動に関係しているのよ。」

「生命衝動?!あの、生きつづけたいっていう気持ちのこと?」

「そうそう。」

「綾子・・・・」

「うん?」

「さっぱりわからないわ・・・・。」

涼香のことばに思わず綾子はふきだした。

「ちょっと〜、笑ってないで素人にもわかるように説明してよ!」

「ごめんごめん。そうだなぁ・・・・。つまりね、人間は皆“生き続けたい”って思うから、寝るとか、食べるとか、するって言ったでしょ?」

「わかるわ。」

「だから、寝るのを邪魔されたり、ものすっごくお腹がすいてるのに、食べられなかったりしたらイライラするのよね。」

「うん、赤ん坊の浩之を育てていた私みたいにね、寝られないってことはどうしようもないような強いイライラ感というか・・・、焦燥感が湧き上がってきたものよ。・・・・。」

「そうだよね、寝るのを邪魔されるってことは生き続けることを邪魔されるのと同じことだからね、その焦燥感はあたりまえよ。でね、その“寝る”ってことと、ヒロ君がああして“水をあけ移している”ことは実は同じなのよ。」

「え?え?あの遊びと寝るのが同じ?どうして?」

「ああして水をあけ移すのも実は生命衝動が根っこにあるからしているってわけ。」

「生命衝動があるから水をあけ移すの?それって生き続けたいという気持ちがあるから水をあけ移すってこと?」

「そうっ!!その通り!!」

「その通り・・・って、全然意味わかんないよ・・・。」

「人間の赤ちゃんってとっても非力な状態で生まれてくるよね。動物の赤ちゃんなら生まれてすぐに立って歩くようになるけど、人間の赤ちゃんは立って歩くまでに一年もの月日がいる。」

「そ・・そうね。」

「もし、野良犬が近寄ってきても逃げ出すこともできないし、お腹がペコペコでも自分で食べ物を探しにいくこともできない。それどころか、仮にミルクが一杯入った哺乳瓶が枕元に置かれていてもそれを掴んで口元に持っていくことすらできないのよ。寒くて凍えそうな夜、足元にフカフカの羽根布団がおかれていてもそれを掴んで自分にかけることすらできない。全てを大人に依存していないと命を守ることができない状態で生まれてくるの。」

「なるほど・・・。」

「だから、人間の赤ちゃんにとっての最重要事項はね、一日も早い大人からの自立なのよ。自分の手で食べ物を掴んで口元に運べる。外敵が来たら逃げられるようになる。寒くなったら洋服を着たり、熱くなったら脱いだり・・・。そういったことが自分でできるようになる、ということがとっても大切なの。自分で自分の命を守れるようになるってことなのよ。」

「なるほどね、それはわかるわ。母親とか他の人間に依存することなく、自分自身で自分の命を守れるようになる・・・ということね。」

「そうそう、自分で食べ物を探しに行き、自分で食べ物を食べ、外敵から身を守り、暑さや寒さに対応できるようになる・・・・。子ども達にとって、この“一人でできるようになる”ってことは命の存続に関わる重要事項なのよ。だって誰かもう一人自分を守ってくれる人間がいないと生き続けられないなんて、こんな危険な状態はないよね。」

「うん、わかる。」

「だからね、子ども達は自分で自分の身体をコントロールできるようになるための練習がしたいのよ。」

「自分の身体をコントロールできるようになる?」

「そう、さっき言ったじゃない?生まれたばかりの赤ちゃんがお腹がすいて泣いている時、もし例えたっぷりミルクの入った哺乳瓶が頭の脇におかれていたとしてもそれを掴んで飲むってことすらできないのよ?だからね、物を掴むとか、掴んだものを口元に運ぶとか、そんなこと全てを練習して体得していかなければならないの。」

「ふぅむ・・・。」

「はいはいできるようになって歩けるようになれば、食べ物を探しに行くこともできるし、外敵が来れば逃げることもできるようになってくるわ。赤ちゃんに誰も『はいはいしなさい』とか『立って歩きなさい』とか教えるわけじゃないよね?それでも人間の子どもは大体生後1年くらいで立って歩く練習をするようになるのよ。自分で食べ物を掴んで食べたがる時期もあるし。一生懸命、食べ物を口元にもっていこうとする姿ってかわいいよね!」

「へぇ・・・そういうことなのね・・・。」

涼香は綾子の話しに聞き入った。

「今、ヒロ君はきっと、ミルク・ピッチャーで水をあけ移したり、シュガーポットのお砂糖をスプーンですくってあけ移したり、そんな練習をしたい時期だと思うよ。年齢的にも、手のコントロールをしたい頃だものね。」

「あ・・・」

涼香は思わず小さな声をあげていた。

「ヒロ君にとって今、ああしている練習はね、どうしても、どうしても、どうっ!!してもっっ!!しなくちゃならない練習なの。自分の手を、自分の身体を、思うようにコントロールできるようにならなければ、命の存続に関わってくるからね。」

「自分の身体をコントロールする練習・・・」

涼香がもう一度つぶやくように言う。

「身体をコントロールする練習は成長とともにどんどん進んでくるの。物を掴むとか、目的の場所に置くとかから始まって、積み木を積んでみるといった、より精緻な手の動きを必要とする活動も好んでするようになるし、ある時期がくれば自分で靴をはきたがるようになったり、自分でボタンをかけないと気が済まないような時期もあるわよね。大人がかわりにやってしまうと火がついたように泣いて怒っちゃったり・・・」

「なんで知ってるのぉぉぉ?!!」

突然涼香が話しに食い込んできた。

「そうそう!!そうなのよ!!最近それもすっごく困っているの!!自分でね、靴をはかないと気が済まないのよっ!!だけどまだ一人でははけないの。だから私がはかせてあげるじゃない?そうするとホントに火がついたように泣いて怒って大変!!自分じゃできないくせにサ!!あのワガママなんとかしてほしいのよっ!!」

「ははははははっ!!ヒロ君もやっぱりそうなのか!」

綾子は笑った。

「笑い事じゃないわ。でかける度にこれじゃこっちの身がもたないわよ!!」

「うんうん、わかるわかる。だけどヒロ君にとって靴をはけるようになるってことは大人が考える以上に大切なことなのよ。う〜ん・・なんていうのかな・・。靴をはけるようになる為の練習がしたいの。」

「靴をはけるようになる練習?」

「そう、練習。さっきから言っているように、一人でできるようになるってことは子どもにとって命の存続に関わるほどの重要事項なわけよね。だから一人でできるように練習したいの。」

「一人でできるように練習・・・かぁ・・。」

「私達がテニスを習いに行ったとするよね。その時、あまりのヘタクソさにコーチがイライラしてきちゃって『こうやって打つんだ!!』みたいに代わりに球を打ちつづけたとする。私たちはそれを見ているだけ・・・。それで私達テニスができるようになるだろうか・・・?」

涼香は首を横にふった。

「でしょ?できるようになるためには自分でやってみないとだめなんだよね。ここがポイントよ。“できるようになるためには自分でやってみないとならない!”」

「それで自分で靴をはかないと気が済まないわけね。」

「そう!そうなのよ!だってヒロ君にとって“靴をはいている”という状態がほしいのではなくて、“靴を一人ではけるようになる”ということがほしいのよ。その為には自分で練習するしかないの。大人がかわりにはかせてしまってはいつまでたっても自分ではけるようにならない。これは子どもにとっては命の存続に関わる重要事項なの。」

「命の存続・・」

「だからね、その練習を邪魔されるとものすっごーーく!!イライラしちゃうの。ちょうど、涼香が寝たいのに寝られなかった時のように。」

「そうなのか・・・・。」

「生命衝動が根底にあるからね。一人でできるようになる、という練習は生きていくために必要不可欠なものだから、だからそれを邪魔されると、ものすごーくイライラするの。ものすごーく腹がたつの。睡眠が必要な時に邪魔されたりしたらものすごーくイライラしちゃうでしょ?それをワガママと言われても困っちゃうよね。」

涼香はハッとした。そして視線を落とした。

「そうか・・・。私、ワガママだなんて言ってかわいそうなことをした・・・。」

「ああ、そんなに深刻にならない、ならない!いいのよ、それで。これからちょっぴりでも理解してあげられたら。」

「だけどさ・・・。」

涼香が情けない顔を綾子にむける。

「そしたら実際どうすればいいの?自分ではけるまで母親は待ってるってこと?マジ、日が暮れちゃうよ。それにはけなかったらどうするのよ?おでかけ、とりやめるの?」

「やーね!そんな極端な!おでかけとりやめなんてあるわけないでしょ!」

綾子が快活に笑う。

「でも、大人がはかせちゃいけないんでしょ?」

「う〜ん・・・、いけないとか、いいとかじゃなくて。つまり、子どもははけるようになる練習がしたいんだってことを理解してあげて、練習する機会をあげればいいのよ。」

「どうやって?」

「例えばね、ヒロ君のピッタリサイズよりちょっと大きめで着脱の簡単な靴を用意して、いつでも練習ができるようにこのリビングにおいておくとか・・・。着脱練習用の靴を用意してあげるのよ。ヒロ君が満足できるまで練習できるようにね。」

「ああ、なるほど!!」

「ほら、今、ああやってしているヒロ君の水のあけ移しも同じことよ。ヒロ君はね、自分の手のコントロールをする練習がしたかったわけじゃない?だから、ミルク・ピッチャーをいじりたがったり、シュガー・ポットをとろうとしたりした。ママのやることは何でも見ていて、自分もできるようになりたいからね。ミルクをあけ移したり、スプーンでお砂糖をすくってあけ移したり、そんな練習がしたかったのよね。」

「・・・・・!!」

ようやく腑に落ちた涼香は目をまんまるくして綾子を見た。

「でも、ミルク・ピッチャーをそのまま渡したり、シュガーポットをその練習に使わせることはできない事が多いでしょ?だから、ああして練習用に道具をセットしてあげるといいのよ。」

「そうか・・・それで浩之は魔法をかけられたみたいに静かになったのね・・・。それほど、やりたかった練習なのね・・・。」

「そう、だから靴もそんなにはきたがるなら練習用を用意してあげてみたらどうかな?出掛けのトラブルは随分おさまるかもよ?」

「うん!やってみる。ええっと・・・、ちょっと大きめの靴ね。」

「そう、ピッタリサイズよりはきやすいから、最初の練習にはいいと思うよ。あ、でもあんまりブカブカではだめよ。練習の意味がないからね。」

「ちょっと待ってて!」

涼香は何かを思い立ったのかリビングを飛び出していった。そして、靴の箱を二つ抱えて戻ってきた。

「これ、どうかな?おばあちゃんが送ってくれたんだけど、浩之にはまだ大きすぎて・・・。」

中から、黒いストラップ付きの革靴を取り出した。

「わぁ!素敵!いいねぇ。ヒロ君、こんなの買って貰えて!むむむ・・だけど、最初の練習用には不向きかなぁ・・・。」

「どうして?」

「うん、このストラップがね。ほら、ここのスナップをとめないとだめでしょう?こういうスナップ付きのを練習したがる時期もくるんだけど、最初の練習だったらやわらかい素材の運動靴とかがいいと思うよ。」

「じゃ、こっちは?」

涼香はもう一つの箱からスニーカーを取り出した。

「わぁお!アイキだ!子供用のなんてあるんだ!」

「これもおばあちゃん。どう?この運動靴でいい?」

「これは、ちょっとむずかしいかなぁ・・・。紐靴はね。一人でコントロールできるようになるにはもう少しお兄ちゃんにならないとね。」

「ええ?!お兄ちゃんにならないとだめなの?!!その頃、この靴、小さくなっちゃってるよ!!じゃ、この靴、はくことはできないってこと?!」

「そんな、できないってことはないけど・・・。こういうのを子どもに一人ではかせるのなら、この紐をゴム紐にかえてあげるといいのよ。」

「おおお!なるほど!」

「最初の練習用だったら、ストラップも何もついてないシンプルなデザインで踵のところにこんなかんじでひっぱるための紐とかをワッカにしてつけてあげるといいのよ。ひっぱりやすいからね。」

「へぇぇぇぇ!」

すっかり感心した綾子は尊敬の眼差しを親友におくった。