翔びたくて

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「翔びたくて・・・18」

 「翔びたくて・・・ 18」

 

夫、元浩の帰宅を待ち、涼香は夫相手に今日のできごとをぽつんぽつんと話した。


「そうか・・・・。ま、そういうこともあるさ。元気だせよ。」


「でも・・・。」


涼香の落ち込んだ気分は回復しない。


「涼香もストレスたまってるんだよな。ごめんな。俺もなるべく育児を手伝うからさ。」


こんな言葉を言ってくれるのだから夫は優しい人なのだ。


わかっている。


でも、元浩の忙しいのが変わるわけではない。


口先だけでウソの慰めを言っているとは思わないが、実際夫が子育てに関わることなど望めない。


現に就職を断るしかなかったではないか。


夫が悪いわけではないと頭でわかっていても納得できない。優しいことばがかえって腹立たしく感じられる。そんな自分がまた嫌になり、涼香の気持ちは沈んでいった。

 

次の日、浩之はかなり朝早く目覚めた。


涼香は明け方まで眠ることができず、やっとウトウトしだした時に隣で浩之がもぞもぞと動き出した。
眠いという気持ちよりも、はっとした緊張感で目が覚めた。


浩之も涼香の顔を見てはっとする。


涼香はなんと声をかけたものかわからず黙り込んでしまった。


「ママ、あのね、僕一人で着替えられる。」


そう言うと浩之はベッドを出て自分で幼稚園の制服を準備した。


一生懸命良い子であろうとする浩之を見て、再び目頭が熱くなる。


自分はなんてだめな母親なのだろう、こんな小さな子どもに気を遣わせてと、また自分を責めたくなる。


涼香は慌てて顔をそむけ、涙を隠した。


浩之は幼稚園へ出かけるまで、朝の間中“いい子”だった。


涼香はかえっていたたまれない気持ちになり、その日は早く家を出た。


決められた登園時間よりかなり早かったが、園門があくなり浩之を預け、そのまましばらく園門付近に立っていた。
佐伯由比子を待っていたのだ。


やがて母親達に手をひかれ登園してくる子ども達で賑わい始めたが佐伯親子は現れない。


電話連絡網でもバッグに入っていないかとバッグの中を探る。


思えば由比子とは携帯で連絡しあうこともなかったのだ。


送り迎えで立ち話しする程度の仲で、こんな暗い話しばかり聞かせるべきではないのではないか・・・そう考えだし、余計に暗い気持ちになる。


その場を立ち去ろうとした時、背後から変わらぬ明るい声で呼びかけられた。


「石原さん、おはようございます!」


佐伯由比子だった。


「佐伯さん。」
昨日と何一つ変わらない由比子の笑顔に涼香は心底ほっとした。


時間ある?話し聞いてもらえる?と頼むと由比子はもちろんとばかり元気にうなずき、子どもを幼稚園においた二人は幼稚園近くのファミレスに連れ立っていった。

 

 

席に案内され、それぞれにメニューが手渡された。


「何にしようかしら・・。納豆定食おいしそうね・・・。」


由比子がメニューを見ながらつぶやく。


「石原さん、朝ごはん食べた?」


「え、あ・・ええ。・・・・・あまり・・・。」
昨日から食欲はない。


由比子は心配そうに涼香をのぞきこんだ。


「・・・どうしたの?大丈夫・・・?」


「ええ、あの、佐伯さん遠慮しないで食べて。」


由比子はウェイトレスを呼び止めた。


「私、納豆定食。」


「アイス・コーヒー下さい。」


注文をそれぞれ済ませると由比子は改めて涼香を見つめ話を促した。
「実はね・・・。」


由比子相手に昨日のできごとを話し出す。


冷静に話そうと思ったのに、やはり涙でことばがつまる。

 

仕事がしたい。


いい母親になりたい。


自由でありたい。


幸せでいたい。


自分はだめな人間なんだ。


自分は頑張っているんだ。なのに・・・!

 

様々な気持ちが胸の中にうずまいて、到底整理することなどできなかった。


由比子はただ黙ってうんうんと聞いてくれた。


「私って本当に最低。最低の母親だわ・・・。結局、自分で何一つ納得していなかったのよね。就職あきらめたこと。
就職をあきらめたのは自分で決めたことだし、浩之にはなんの責任もないのに。自分のことで頭がいっぱいで浩之の話しなんか全然聞いてなくて。その挙句あんなに理不尽に叱りつけたりして・・・。


『あ!アイスクリーム食べていいって返事してたかも。』って気づいた時はもう、死ぬほど後悔した。時間を戻してやり直したかった。
だけど・・・・・。」


涼香は大きく溜息をついた。


「もうどうしようもないし・・・。


私って最低。私って最低だわ。でも・・・・。」


涼香は再び涙でことばをつまらせた。


「どうしても・・・どうしても、イライラした気持ちが押さえられなくなって・・、もう・・・、本当に・・・、どうしていいか・・・わからない・・・・・。」


涙でことばがつづかなくなった。


そんな涼香を由比子はただ黙って暖かく見つめていた。


そして黙って聞いていた由比子が始めて口を開いた。


「石原さんって・・・・・・、本当に素敵なお母さんね。」


自分の耳を疑うような一言だった。


涙をぬぐいながら涼香が言う。


「やめてよ。そんな・・・。」


慰めなんて。


そんなピントのはずれたお世辞なんて。


気持ちは嬉しいけれど聞けるわけがない。


そんな涼香の気持ちを察して由比子がつづける。?????


「お世辞や慰めで言ってるんじゃないわ。本気で言ってるのよ。そんな風に真剣に子育てに向き合って、苦しんで、涙を流して、本当に・・・・、素晴らしいお母さんだわ。」


由比子の顔は見たことがないほど真剣だった。


「だってそうでしょう?私達は人間だもの。いくらお母さんだって間違うことなんていっぱいあるわ。間違わない人間なんていないわよ。


母親って強くって完璧だから立派なの?だから尊いの?


そうじゃないわ。


たくさんたくさん迷って、後悔して、自分はだめなんだって思わされて、それでも!


それでも、一生懸命良き母であろうとするから尊いんじゃない!」


由比子のことばに涼香の涙はいよいよ止まらない。


「どんなに自分の弱さをみせつけられても、どんなに自分の愚かさをみせつけられても、それでも決してあきらめない。お母さんであることをあきらめないから苦しむんじゃない。だから石原さんは今、苦しんでいるんでしょう?
・・・本当に・・・・、本当に素晴らしいお母さんだわ。」


涼香はもはや顔をあげることもできなくなっていた。


ファミレスの中で泣き声をあげることができず、必死で声を殺して泣いていた。


「だけど・・・、私・・・・、じゃぁ・・どうすれば・・・・。」


由比子の暖かい眼差しを涼香は感じる。


「どうすればいいのか・・・。私もわからないけど・・・。きっと答えは石原さんが知っているのかも・・・。」


「・・・?・・」


泣き顔のまま疑問を投げかけるように由比子の顔を見る。


「以前、これも本間先生のモンテッソーリのお話しからなんだけどね。子どもは皆『内なる教師を持っている』って話しをお聞きしたの。」


「・・・内なる教師・・・・?」


「そう、ほら赤ちゃんって皆、1歳くらいになると立って歩く練習を始めるでしょう?ある時期がきたら自分でお箸を持とうとしたり、自分で靴を履こうとしたり・・。」


何度か聞いたモンテッソーリの話しだ。


「大人の側で『今日から歩く練習をしましょう』なんていって無理に歩かせようとする人なんていないじゃない?放っておいても子どもは時期がきたら歩こうとするのよね。自分が今、何を学び取るべきかちゃんとわかっていて、一生懸命自分が成長するように頑張るわけよ。


子どもの内側に先生がいて導いてくれるんだって。


もしかして、それって大人も同じなのかな・・・なんて今思ったの。きっと石原さんも石原さんの内側に教師がいて、あなたが進むべき道とか、答えとか、ちゃんと掴みとれるように導いてくれるんじゃない?」


「それって・・・、自分で本当はどうすべきかわかっているってこと・・・?」


「う〜ん・・・、そうね。そういうこと・・・なのかなぁ・・・?
石原さんは今、どうすべきかわからないから苦しんでいるのよね・・・。
でも、それって自分で良き母親でありたいと願うから悩んで苦しいわけじゃない?自分で良き母親であろうとしているそれが既に内なる教師に導かれているのかも・・?
ごめんなさい!よくわかんないわ!」


涼香は・・・・わかったような気がした。


間違わないのが、完璧なのが尊いのではない。どんなに不完全でも、それでも一生懸命良き母であろうとするから尊いのだ、ということばに胸が打たれた。


良き母であろうとジレンマの中で苦しむこと自体、内に教師がいて導かれているからなのだろうか・・・。


そんな気がした。