翔びたくて

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「翔びたくて・・・17」

 すっかり夢中になって話していたが、気が付けば園庭はお迎えの母親たちで一杯になっていた。

「あ、いけない!私達もさくら組に行かなくちゃ!」

二人は慌てて立ち上がった。

さくら組ではすでに子どもの引き渡しがかなり進んでいた。担任の日比野理佐は由比子と涼香の顔を認めると浩之と里穂を送り出し、軽く二人に会釈する。

無邪気な二人の子どもはそれぞれの母親の元へ走りよった。

「ね?今度一緒にゆっくりお茶でもしない?アロマ・サロンに行きましょうよ。石原さんは忙しいの?」

「ううん、大丈夫。そうね、たまにはいいかもね。」

「そうよぉ。たまには自分を喜ばせなくっちゃね。それでこそ楽しく育児もできるってものよ。」

楽しく育児・・・。

なんだか今の自分からは程遠いことばに感じる。

でも、由比子といるとなにかしら気持ちが癒される。彼女ともっと一緒にいたいと思った。

園門付近で副園長の本間五郎が父兄や子どもに挨拶をしていた。

「五郎先生さようなら!」

里穂も浩之も元気に挨拶をする。

「やぁ、浩之君、里穂ちゃん、さようなら。また明日。」

まるでテレビ番組の体操のお兄さんのようだ。本間はさわやかそのものだった。

「本間先生さようなら。」

由比子が挨拶をし、涼香もつられて頭を下げる。

「石原さん、佐伯さんさようなら。」

本間が微笑む。

「本間先生、私達今度アロマテラピーのサロンに行くんです。」

うげげ・・・!

由比子にはいつも驚かされる。全く物怖じをしない。

「へぇー!いいですねぇ。楽しんできて下さい。」

「本間先生のお話しから行くことになったんですよ。」

「え?僕の?僕はアロマ・サロンなんて行ったことないですよ。」

二人は本間がアロマでくつろぐ図を思い浮かべ、思わずふきだしそうになった。

「違うんです。先生のモンテッソーリ教育感覚教育の話しです。あれをお聞きしていらい、子どもに感覚器官を使わせるより、自分で使う方に凝っちゃって。」

「ああ、なるほど。佐伯さんは本当によく僕の話しを覚えてくれているんですね。嬉しいなぁ。」

「子どもは自分の命を守るために感覚器官を使って、洗練させたいんですよね?」

「ええ、その通りです。」

「ええっと・・・、そして感覚教育は数や言語などの学習の基礎になる・・・?」

由比子の語調が少々自信なげに落ちていく。

「そうです。全ての、芸術も含めて全ての人間らしい知的な活動全ての基礎となると言えるでしょうね。言わばこの世界へ飛び出す冒険の旅への鍵と言われているのです。」

この世界への冒険の旅の鍵・・・。なんだか魅力的なことばに涼香の好奇心は刺激される。

「感覚教具の数は最低限の数に限定されているのです。」

???

いきなりむずかしいことばになったような・・・。涼香の顔に?が素直に出てしまう。

「すみません。わかりにくかったですね。ええっと・・・なんと言えばいいのかな・・・。
例えば、感覚教具は全部で大きく5つに分類できますよね。視覚を洗練させるための教具、聴覚を洗練させるための教具、そして触覚、味覚、嗅覚。」

由比子と涼香はうんうんとうなずきながら聞く。

「当たり前ですよね。5感覚といわれるくらいですから、5つです。どうですか?6番目の分野を作ることができますか?」

二人は首を横にふる。

「では、それぞれの分野の中で考えてみると、例えば視覚です。視覚のための教具を種類別にわけるとサイズ、形、色の3種類に分けることができます。私達は視覚を使って物を認識する時、“サイズを見る”“形を見る”“色を見る”という3つのことをしているのです。どうです?他に第4の種類を作ることができますか?」

本間が問いかけながら涼香を見る。

「え?えと・・・。サイズと形・・・?」

「と色です。視覚を使って大きいとか小さいとか弁別するでしょう?視覚を使って形を見分けることもできるし、視覚を使って色を識別しますよね?どうですか?他に視覚を使って見分けていることがありますか?視覚を使って重さを感じられますか?視覚を使って音を聞くことができますか?」

「そういえば・・・ない・・・です。」

なんとも間の抜けた返事だ。自分で自分が嫌になる。

「でしょう?更に細かく分類してみますね。

例えば視覚教具の中でも色の識別を考えて見てください。色の識別にも2種類があります。」

「?」

「色そのものと違い、赤とか青とかを識別することと、同じ青でも濃いか薄いかその濃淡を見分けること。」

なるほど!と顔が輝く。

「聴覚もそうですよ。これは鐘の音だとかこれはガラスの音だとか、音そのものの質を聞き分けるものと同じ音でもその高低を聞き分けるものがあります。同じ鐘の音でも低い音と高い音があります。」

「音の高低の聞き分けならば音楽教育と直接関係しますね。」

由比子が気が付いたとばかり声をあげる。

「そう!そうなんです。そのように感覚教具はこの世の中を人間が知覚する全てのものが整理され最低限の形となって表現されているんです。聴覚の教具であれば音の質を聞き分けるものと音の高低を聞き分けるもの。この2種類しかありません。3番目を作ろうと思ってもできないのです。ですから感覚教具の数は少なく限定されているのです。人間はこの限定された感覚諸機関を駆使して物事を認知し、そして自分の側からも発信して表現しようとする。子ども達は感覚教具を通して、大きいとはどういうことか、小さいとはどういうことか、高い音は何で低い音は何か、暖かいとか冷たいとか、この世界を知っていくわけです。そしてそれらの土台に芸術とか、文学とか、数学とかが展開されていくのです。」

「なるほど。絵を描くのなら視覚教具で形や色やサイズを認識して表現するというわけですね。音楽ならば聴覚。」

由比子が言う。

「そう、そのとおりです。」

「でも、数学とかはどうむすび付くのですか?」

単純にずばりと聞く。

「数学と感覚教具は非常に密接な関係があります。例えばサイズの認識を考えてみて下さい。」

「なるほど。量の把握ですね。」

「そう。そのとおりです。感覚教具に赤い棒を呼ばれている教具があります。全部で10本の棒があり、一番短いのは10センチ、一番長いのは100センチで、それぞれ10センチづつ長さが違うのです。これは視覚の中のサイズの教具ですが、これと全く同じものが数の教具にあります。ただ色だけが違うのです。」

「色だけが・・・。」

涼香も納得しようと、ぽつりとつぶやく。

「数の棒は10センチごとに赤と青の2色で色が塗り分けられているんです。

子ども達は赤い棒を通して『なが〜い』とか、『みじかいっ』とかを触って経験しているのですが、この経験にある時、『このなが~いと感じていたコレ、これは10!』と長いという感覚に10という名前、数詞を一致させるのです。これは1とかこれは3とか。」

「感覚を通して得た経験に数詞を一致させる・・・・。」

涼香がもうい一度ぽつんとつぶやいた。

「そう!そうなんです!」

本間が嬉しそうに声を上げる。

「実際は教具を見た方がいいですね。是非、また保育室をのぞいて下さい。数学の(a+b+c)が具体物で表された感覚教具とかもあります。楽しいですよ。」

 

 

二人は本間に礼を言って幼稚園を後にした。

なんだかやっぱりモンテッソーリって想像以上に奥が深い。

涼香は浩之をチャイルド・シートにのせ、車を発車させた。

運転しながらも、今聞いた話しを深く納得しようと思い出していた。

新しいことを知るのは気分がいい。就職をあきらめた自分を慰めたかったのかもしれない。

後部シートでしきりに浩之が涼香に話しかけるが生返事をしていた。

「ママ、ママ!ねーねー、帰ったらアイスクリーム食べていい?」

「うん。」

「やったー!やったー!あのね!チョコのとイチゴのともいっこチョコのと。たべる!」

「うん・・・。」

浩之に話しかけられるのも億劫で、家についてからもしばらくリビングでぼぅっとしていた。

そういえば浩之が静かだ。

どこにいるんだろうとキッチンへ行ってみると、床に座る浩之の姿を見つけた。

床には食べ散らかしたアイスクリームの残骸が広がっている。

「何やってるの!!」

思わず声を荒げた。

浩之がびくんと驚く。

それからわーんと大声で泣き出した。

うるさい。

浩之の泣き声に、更に涼香はかっとなった。

「どうして勝手にアイスクリームを食べたりするの?!しかもこんなに一杯!!アイスクリームは一つでしょっ?!」

「ママ嫌い!ママ嫌い!!」

浩之の泣き声が更に大きくなる。

「あなたが悪いんでしょ!!なんで泣くの!」

「やだっ!ママだいっ嫌い!!ママ、いいって言った!」

浩之は怒って涼香を叩く。

涼香もついつられて浩之の頬を叩き返した。

一瞬、浩之が驚き、その後、叫ぶような大声で泣き出す。

涼香もはっとする。

叩いてしまったことに自分自身で動揺する。

もう・・・!やだ・・・。

なんで、言うことを聞いてくれないの?(聞いてくれたら叩いたりせずにすんだのに・・・)

せっかく、本間や由比子と話し、気分がよくなったのにまた台無しだ。

浩之のせいだ。

浩之のせいで就職もあきらめなければならなかった。

就職を断ってからの鬱積が爆発する。

「いい加減にしてッ!!」

涼香は浩之の腕をつかんで、隣の寝室に連れていった。

「いいというまでそこから出ちゃだめよっ!」

そういうと怒りの全てをぶつけるかのようにバンッとドアを閉めた。

更に浩之の泣き声が高くなる。

「ごめんなさい!ママ、ごめんなさい!!」

浩之はパニックを起こしたように泣き叫びドアの元へ駆け寄る。

涼香は浩之が部屋から出られないように鍵をかけ、逃げるようにリビングへ飛び込んだ。

浩之の激しい泣き声が少し遠くになる。

それから逃れようと両手で耳をふさいだ。

ああ、もう!嫌だ!嫌だ!嫌だ!!

なんでこんなことになってしまったのだろう?

やっと由比子や本間と話をして、ああ、やっぱりモンテッソーリの幼稚園でよかったのだと納得できて、楽しい気持ちが戻ってきそうだったのに。

就職を断ったこと・・・、自分で自分をなんとか納得させようと努力していたものが、一揆になだれのように崩れ去った。
どうしも・・、どうしても自分のイライラを抑えることができなかった。

 

夕方になり、静かになった浩之をのぞいて見ると、泣きつかれて眠っていた。

今日はこのまま起きないかもしれない。

浩之の涙の後を見て、隣に座り込む。

やっと少し冷静になれた涼香はそっと浩之の頭を撫でた。

その瞬間、ふと浩之が「ママ、いいって言った」と言ったとことを思い出した。

「いいって言った・・・・。」

なんのことだろう?

アイスクリームを食べていいと言ったということだろうか・・・・・?

 

あ!!

涼香の顔から血の気がひいた。

言った・・・・・・・、かもしれない・・・・・・。

車の中で・・・・。

イチゴのとチョコのと食べるとかなんとか・・・・、うんうんと生返事をしていた。

そしてそのまま浩之を放っておいた・・・・。

 

どうしよう・・・・・。

眠る浩之を改めて見下ろす。

どうしよう・・・・、どうしよう・・・・。

自分はなんてことを子どもにしてしまったんだろう・・・・。

涼香は動揺した。

浩之に申し訳なくて、自分が情けなくてどうしようもない。

「・・・・ママ・・・・・」

その時、浩之が涼香を呼んだ。

はっとして浩之を見る。

半分寝ぼけたように涼香の首に手を伸ばしだっこをせがむようだった。

涼香は浩之をぎゅっと抱きしめた。

「ママ・・・ごめんなさい。」

寝ぼけたようにそう言うと、浩之はまた眠り込んだ。

子どもを見つめる涼香の目に涙があふれ出た。

「ごめん・・・・ごめん・・・・浩之・・・ごめん・・・・。」

言葉を発すると涙はよけいにあふれ出す。

浩之をぎゅっと抱きしめる。

「どうしよう・・・。どうしよう・・・・・。浩之・・・。」

涙が止まらなくなる。

次から次へと涙が頬をつたい、ついに涼香は泣き崩れた。