翔びたくて

はじめに | 1話 | 2話 | 3話 | 4話 | 5話 | 6話 | 7話

8話 | 9話 | 10話 | 11話 | 12話 | 13話 | 14話 | 15話

16話 | 17話 | 18話 | 

「翔びたくて・・・16」

「今日ね、三枝部長にお断りしたわ。」

涼香は帰ってきた元浩に報告した。

「そうかぁ。いいのか?それで。」

「うん、よくわかんない・・・。」

涼香は淋しげな顔をした。

「とっても残念に思う。これでよかったなんてすっきりとは思えないの。でも・・・。」

「でも・・・なんだよ?」

「やっぱり無理・・・。仕事を断って後悔しているけど、引き受けて浩之を転園させたりしたらもっと後悔しそうなんだもの・・・。なんだかそれが怖くて引き受けられなかったの。」

「そうか・・・。おい、そんなにしょげんなよ。またきっとチャンスはあるよ。」

さすがに元浩もしょげている妻は気の毒に思えてならなかった。
チャンスなんてもうありっこないわよ。慰めてくれているとわかっていてもなんだか腹がたった。それが八つ当たりであることはかろうじてわかっていた。

 

次の日も一日涼香はどんよりと考え込んでいた。これで良かったのだとなんとか自分に言い聞かせ納得させようとしていた。それでもどうやったらこの暗い沈んだ気持から抜け出せるのかわからなかった。

「石原さんったら!」

呼び止められてはっとする。

「どうしたの?ぼぅっとしてさっきから何度も声をかけたのよ。」

由比子がさわやかな笑顔を見せる。

「あ・・・、ああ、佐伯さん。」

「具合でも悪いの?」

心配そうに覗き込まれあわてて否定する。

「ううん、大丈夫。私ったら・・・。ちょっと考え事しちゃって・・・。」

「そう?ちょっと今日早く来すぎちゃったかしら・・・。ねぇ、あそこのベンチに座らない?」

園庭には由比子と涼香の他にもお迎えの母親達がぽつりぽつりと立っている。

「そうね。」

うかない顔は晴れない。どこかに腰をおろしたい。由比子に促されるまま園庭の端にある子ども用のベンチに腰をおろした。

「本当にどうしたの?」

由比子が更に聞く。

「うん。あのね、この前話したあの再就職の話し。あれ、お断りしたの。」

「え?!そうなの?どうして?」

「いろいろ考えたんだけど・・・。やっぱり子どもが小さいから・・・。」

「そうかぁ・・・・。」

由比子はそれ以上聞かず、涼香の心にそっと寄り添うようにしばらく黙った。

「あ!そうだ!!」

突然声をあげ、由比子はバッグの中をごそごそと探し出した。

「あった、これこれ。」

そういうと小さな小瓶を取り出した。

「何、それ?」

涼香も興味を惹かれ、由比子の手元の小瓶を見る。

「いいからいいから。ちょっと目をつぶって!」

「ええ?」

なにがなにやらわからぬまま涼香は由比子の勢いに押されて目をつぶる。

由比子は小瓶を手に涼香の後ろに回った。

 

あ!

いい匂い・・・・。

 

突然、涼香はなにか甘い香りに包まれた。

それから由比子の細い冷たい指先が涼香の肩にあたる。

「リラックスしてね。」

由比子の指が涼香の肩をリズミカルにマッサージする。

甘い香りと供に涼香の力が抜け、悩みが癒されていくような気がした。

 

最後にぐっぐっと背中と肩をなだつけれられ、涼香はそっと目を開けた。

「どう?」

由比子の微笑む。

「・・・・・。気持ちいい・・・・・。」

本当にいつも由比子には驚かされる。

「なに?これ。どうしたの?なんの匂い?」

夢からさめたように由比子に問う。

「すごい・・・。佐伯さんってアロマかなんかやってるの?」

「ふふ・・。見よう見まね。気持ちいいでしょ?私、最近アロマテラピーに凝ってて、時々サロンに行くのよ。」

「へぇ・・・。」

「今のはね、ほら、これ。オレンジよ。リラックスしたい時にいいの。」

由比子は手にした小瓶を涼香に手渡した。

涼香はそっとフタを開け、鼻を近づける。

「わぁ・・・。いい匂い。癒されるかんじ!」

「でしょう?待ってて。他にも何か持っていたと思うわ。」

そう言いながら由比子はバッグの中から小さなポーチを取り出した。中にはかわいらしい小瓶がいくつか入っていた。

「ほら、これ。かいでみて。」

涼香は言われるままに小瓶を開け、匂いを嗅ぐ。

「あ・・・・。なんかさわやか。」

「そう。それはね。ラベンダー。気分をリフレッシュしたい時とかにいいのよ。

それから、これ。これはね。ペパーミント。頭痛にも効くの。」

「へぇ。頭痛に?」

「そう。オレンジなんかは緊張している時に嗅ぐの。ゆったりした気分になれるのよ。」

「すっごーーーい。佐伯さんって何でもできるのね。」

「違うの。だから見よう見まねだって。アロマテラピーのサロンでは勧められるままについつい買っちゃうのよ。でも、どう?楽しいでしょう?」

「本当ね。こんな趣味があったら毎日がわくわくしそうだわ。」

「ね。良かったら今度一緒にサロンに行かない?たまには自分で自分を労わらなくっちゃ!」

自分で自分を労わる・・・。

なんだかとても素敵なことばで、そして自分に欠けていたものに思えた。

「うん、今度、連れてって。なんだかとっても興味が沸いてきたわ。」

涼香は少し元気が出てきた。

「そういえば、私子どもの頃匂いを嗅ぐの大好きだったのよね。消しゴムとかってきれいに消せるかより匂いが大事だったな。文房具屋さんで一つ一つくんくん匂いを嗅いでどれを買うか決めてたのよ。」

「あ、うんうん。そうそう。それよ。そこら辺がきっかけだったの。」

「え?」

なんのことがわからず涼香が聞き返す。

「あのね。本間先生のモンテッソーリの勉強会で感覚の説明を受けた時だったの。」

「ああ、日常生活練習、感覚、数、言語、文化の5分野があるのよね。」

「そうそう、その感覚。

あのね、子どもは感覚器官を使うのが大好きなんですって。」

「感覚器官?」

「そう、視覚、触覚、聴覚、嗅覚、味覚。これらを使うのが大好きなんですって。
ね?私達も覚えがない?今、石原さんが言った消しゴムもそうよね。子どもの頃、匂いを嗅ぐの大好きだったじゃない?いい匂いのティッシュペーパーとか大事にしてた。」

うんうん、と涼香がうなずく。

「他にもオルゴールの音が大好きだったり、ちりーんという風鈴の音が大好きだったり・・・。」

「ええ、覚えているわ。私、ピアノの高音が大好きでぴんぴん鍵盤を叩いていた。」

「そうそう。それは聴覚よね。それから視覚。新しいクレヨンを買ってもらった時、ぱっとフタを開けてきれいにならんだクレヨンを見ると宝石箱のようにきれいだと感動したりしたわ。」

「そうね。今思えばなんてことのないガラス玉がとってもきれいに見えたのよね。」

「触覚も覚えがない?ビロードの生地を触るのが大好きだったり。」

「ああ!そう言えば!浩之、よしなさいと言うのに砂壁とか撫でるのが大好きなのよ。なんかもう恍惚としたかんじで夢中で触ってるの。」

二人は思わず吹き出した。

「あのね。私達人間は自分の命を守るために常に感覚を使っているんですって。」
「え?命を?」

「そう。例えば道を歩いているじゃない。後ろから自動車がブーーーっと走ってきたら端っこによけるでしょ。」

うなずきながら聞く。

「ね?聴覚を使って身を守っているのよ。」

ああ!と涼香の目が驚いたように見開かれる。

「他にも、『あれ?この肉古いかしら?』なんて色がおかしいのに気づいたり、視覚を使っているでしょ?それから臭いをかいで確かめるの。今度は嗅覚。」

「なるほど!そうなのね。あまりに当たり前すぎて気が付かなかった・・・。」

「そうなのよ!命を守っているなんて言われても気がつけないほど、当たり前に使っているのよね。手をかざしてお風呂の温度を確かめたり、触角の温度感覚よ。」

「ほんと、ほんと!いくらでも出てくるわね。ガスの匂いがしたら危険だと感じるし!」

涼香は驚き、由比子の話しに夢中になっていった。

「だからね、小さな子ども達は自分の命を守るために感覚を洗練させていくんですって。そのために感覚器官が敏感になっていて感覚を使うのが大好きになるんですって。」

「はぁーーーっ、なるほど!そういうことなのね。」

「そうなの。私、本間先生の話しを聞いて感動しちゃったの。でね、その時、にわかに子どもの頃の思い出がよみがえってきて、いろんなきれいな音探しが好きになったの。」

「きれいな音さがし?」

「そう。オルゴールの音を聞いてみたり、風鈴のどの音が一番きれいかお店でためしてみたり、楽器屋さんにいって音色をいろいろ聞いてみたりしたのよ。」

涼香は別の意味で驚いた。

「なんか・・・。佐伯さんって行動派ねぇ・・・。」

「そうよぉ。気になるとなんでも試してみたくなっちゃうの。いろんなことに興味がありすぎちゃうのかも・・・。あ、それでね、きれいな音探しが一段落したら、今度はきれいな匂い探しが好きになっちゃったってわけよ。」

「へぇ〜。」

「匂いってなんだかすごいのよね。嗅いでいるだけで、お腹がすいたり、唾液がでたり。」

「ああ、レモンの匂いとかね。」

「ある時ね、実家で子どもの頃よく行っていたプールに子ども達を連れて行ったの。すっかり忘れていたんだけど、そこの更衣室って古い板張りでプールの塩素の匂いと混じって独特の匂いがするのよ。その更衣室に入ってその匂いを嗅いだらものすごく懐かしかくなって、それと同時に子どもの頃の感覚が一度に全て蘇ったの。このプールに従兄弟のおねえちゃんと来たこととか一番上の棚に手がまだ届かなかったという感覚まで全て!」

涼香は興味深げに聞いた。

「それで、匂いってなんかすごいなぁと思ってそれからアロマにも興味が出てきて現在に至るってわけなの。」

「いい趣味ね。私にもいろいろ教えてね。」

由比子は遠慮がちに首を横にふった。

「教えるなんてほどじゃないけど・・・。私って興味が出ると夢中になっちゃうのね。」

そう言って子どものように笑う由比子をつくづく魅力的な人だと思った。なにかに興味があるって人生をわくわくさせる

素敵なことなんだと改めて感じさせられ、由比子をまぶしく感じた。