翔びたくて

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「翔びたくて・・・15」

「へぇ〜、すごいわねぇ、石原さん!やればいいじゃない!」

「でもねぇ・・・、そう簡単にはいかなくて・・・。」

涼香は浩之を幼稚園に送っていった後、佐伯由比子に職場復帰の件を相談していた。

「ご主人が反対なさってるとか?」

「ううん、うちの主人は割りと寛容なの、そういうこと。」

「まぁ!じゃ何も問題ないじゃない。」

「反対はしないけど、協力もそんなに得られないのよ。仕事が忙しいの、とっても。」

「IT企業だったかしら?無理ないわ。」

「だめとなると余計やりたくなるのよね。」

「わかるわかる。」

「結局、浩之を見てくれる人がいないと無理なのよ。」

「浩之君のおばあちゃま達は近くには住んでらっしゃらないの?」

「主人の実家は横浜だもの。うちは埼玉県だけど、S市だし。」

「じゃ、無理かぁ・・・。」

「やっぱりあきらめるしかないのかな・・・。」

涼香は大きく溜息をついた。

「まぁまぁ、そんなに早く結論づけることもないわ。」

「でも、何回考えてもね・・・。結局選択しなければならないのよ。」

涼香が独り言のようにつぶやく。

「選択って?」

由比子はなにやらひっかかるそのことばを捉えた。

「ああ、あのね。」

涼香が説明しだした。

「私、優柔不断でよく部長に聞かれたのよ。『で、どう?君はやりたいの?』って。私がやりたいのかどうか。私の気持ちはどうなのかって質問、結構むずかしいのよね。答えるの。」

そうね、と由比子が相槌を打ちながら聞く。

「でね、モンテッソーリ教育の自由選択活動の意味を説明してもらった時のことを重ねて思い出していたの。『人生は選択の連続だって。しっかりと地に足をつけて、自らの手で自身の幸せを選びとっていくという行いは、子どもの自由選択活動からすでに始まっている』って。」

へぇ、と由比子が感心する。

「素敵なお話しね。自由選択活動をそんな風に捉えるなんて、考えたこともなかったわ。」

「本間先生は自由選択活動について何かおっしゃっていた?」

「ええ。お話しはあったわね。なんておっしゃってたかしら?」

由比子は人差し指はあごにあて、思い出してみる。

「う〜ん、そういえばそんなお話しもなさっていた気がするわ。私もモンテッソーリ・ママの新米だったからあまりよく憶えていないのよね、きっと。あ、そうだ。」

何かを思い出したようだ。

涼香はなになに、と身を乗り出した。

「子どもは子どもの発達を自分自身で一番よくわかっているのだ、とおっしゃっていたわ。」

「自分で一番よくわかっている?」

「そう、今月は足し算をしましょう、とか、今週はひらがなを覚えましょうとか、そんな風に教師の側で計画を立てるのではなくて、何を活動するかはあくまで子ども自身が決めるのですって。
ほら、赤ちゃんって一歳前後になると立って歩くようになるでしょう?それって大人が『さぁ、今日からハイハイはやめて歩く練習をしましょうね。』なんて計画を立てて練習させるわけじゃないわよね?それと同じで、子どもはある時がくると、スプーンを投げ捨ててお箸の練習をしたくなるし、ボタンを自分でとめないと気がすまなくなるし、ひらがなに興味を持ったり、数に興味を持ったりするんですって。人間の子なら皆、自然にそういう時がくるし、その時にその興味を持った活動をするべきなんですって。あくまで子どもが自分の成長に合わせて、合ったものを選びとるべきなのよ。それを大人は援助するってわけよね。」

「ええ、わかるわ。大人の側で計画を立てて子どもにやらせるのではなく、子どもが子どもの成長にあったものを選びとり、それを大人は子どもが上手にできるようになるために助けてあげるというわけよね。」

以前にも聞いたような話しだ。涼香はうなずいた。

「でね、問題は今、その子どもがどの活動に興味を持っているかってことなのよ。その子どもの成長段階にぴったりあった活動を見つけてさえあげられれば子どもはいつも楽しく熱心にお仕事ができるでしょう?」

「なるほど。」

「で、自由選択するわけよ。」

「・・・・?」

「つまりね、クラスの中に子どもが興味を持つお仕事をセッティングしておいて、その中で子ども達に自由に選ばせるの。」

「ああ、なるほど!」

涼香がわかったというように顔を輝かせた。

「そうすれば自然に子どもは自分の興味のあったものを選ぶというわけね?自分がどの成長段階にあるかを大人に教えてくれるのね?」

「そう!その通り!」

「へぇ〜、モンテッソーリのクラスって本当によく考えられているのね・・・。」

涼香は心から感心したように言った。それからまたふと暗い顔をした。

「やっぱり・・・ね・・・。」

「ん?何がやっぱり?」

「うん、やっぱりモンテッソーリ教育を選んでよかったってことよ。」

涼香は視線を落とす。

「そうだけど、それが何?石原さん暗いわよ?」

由比子が涼香の表情を心配して聞く。

「だからさ、浩之を転園させるってことはできないわよね・・。」

そっと溜息をつく。

「どうして幼稚園を変わるのよ?」

「浩之をもっと保育時間の長い託児所とかに預ければ働けるでしょ?」

ちらりと由比子を見上げる。

由比子はことばにつまった。

少し考え、それから言った。

「転園すれば?」

「ちょっと!他人事だと思って!」

突然の思いがけないことばに涼香が驚く。

「ううん、真剣に言ってるのよ。私は淋しいと思うわ。もし浩之君が転園してしまったら梨穂も淋しがるだろうし私も淋しいわ。せっかくお友達ができたのに。でも石原さんにとってその仕事がとても大事なものなら転園したらいいじゃないの。」

まさか由比子にそう言われようとは思わなかった。自分の仕事のためにつばさ幼稚園をやめさせる。それは自分ではあり得ないことだと思っていた。

でも、でも、でも・・・・。

あるのだろうか?そんな選択があり得るのだろうか?由比子に言われて自分ではタブーだと思っていた道を改めて考えてみた。

「でも・・・・。」

やっとそれだけ言った。

由比子は黙って涼香のことばを待った。

「でも・・・・、子どもを犠牲にするなんて・・・・。」

犠牲にする・・、そんな言葉が口から出てきた。

「犠牲なのかしら?」

由比子が真剣に聞き返す。

「だって・・・。」

「子どもだって、ヒロ君だってお母さんが生き生きと輝いていた方がいいんじゃないの?」

「そう?本当にそう思う?それって大人の言い訳なんじゃ・・・?」

「ヒロ君は大切なあなたの子どもだけど、石原さん!あなたも大切な一人の人間なのよ。つばさ幼稚園でなくてもあな

たがおうちでモンテッソーリをしたらいいじゃない。」

「無理よ、そんな・・・。」

「私は何もつばさ幼稚園を辞めろって言ってるわけじゃないのよ?でも、何が一番石原さんとヒロ君にとっていいのか、広い視野で考えてみたらと言いたいのよ。」

涼香はことばを失った。

そうね、ありがとう、考えてみるわ、やっとそう返事をしその日は由比子と別れた。

 

家に帰ってもぼぅっとそのことを考えていた。

自分で今更フルタイムの仕事に就けるのだろうか、そんな心配をしたのが昔のことのように感じられた。

やはり職場復帰は無理かも・・・と思うとどうしてもこのチャンスを逃したくない、そんな気持ちになっていった。

でも、でも、でも・・・、浩之は本当に大丈夫だろうか?24時間営業の託児所とは一体どんなところなのだろう?浩之はなじめるだろうか?

私は?

私の勤めはどうなるのだろう?

以前、働いていた時は残業も多かった。夢中で仕事をした。浩之を託児所に預けたなら夜遅くになってすでに眠っている浩之を迎えにいったりするのだろうか?そして次の日また大急ぎで朝ごはんを食べさせ託児所においていく・・・・。

そんな生活になったらどうだろう?仕事は始めたら簡単には辞められない。責任もでてくる。それで浩之は・・・?まだ母親に甘えたいさかりのこの小さな男の子はそれで幸せなのだろうか?

いや、でもそれは考えすぎかもしれない。託児所は楽しいところで自分の生活にもはりができてもちろん金銭的にも余裕ができる。私だって母親とはいえ人間だ。自分の人生を真剣に考えるべきなのだ。そうも思える。

じっと考え込む涼香のところへ浩之が嬉しいそうに駆けてくる。

「ママ!見て、お土産!!」

ビニール袋いっぱいに細かく切ったにんじんが入っていた。

涼香が驚いて聞く。

「どうしたの?これ。」

「あのね、今日、幼稚園で切ったの。ママこれでカレーライス作って!にんじん切るのすっごくおもしろかったよ。僕いっぱい切っちゃった。ママ、嬉しい?僕、ママのお手伝いしたの。」

涼香は改めて驚いた。こんなにたくさんの量を切ったなんて。浩之の手ではさぞ時間がかかったことだろう。それをおもしろかったと息子は言う。きっと本当に集中して夢中になって切ったに違いない。

「やっぱり・・・・・」

ぽろりと一言口をつく。

「ママ、今日ね年長さんの優君と遊んだの。優君やさしいんだよ。僕達お友達になったの。明日もその次もずーーーっと一緒に遊ぶの。」

浩之の無邪気な幼稚園の報告はとまらない。

やっぱり辞められない・・・・。

心の中でそうつぶやくと、はらはらっと涙が頬をつたわった。

浩之がそんな母親をはっとして見つめた。

「ママ、どうしたの?にんじん嫌いなの?おなか痛いの?ママ、大丈夫?」

幼い息子が自分を気遣う。涼香は思わず浩之を抱きしめた。

「ごめん、ごめんね。ごめんね。」

そうつぶやきながら小さな身体を抱きしめる。

小さな浩之の手のひらがぴたりと背中にそっていた。

 

涼香はその晩、三枝部長に断りの電話をした。

浩之を最優先にしよう。それが自分の選択だった。