翔びたくて

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「翔びたくて・・・14」

涼香は電話を手にして、さっきから何度か溜息をついていた。

 先日、母親から電話をもらい、昔の上司である三枝部長に連絡をとったかどうか聞かれた。

 まだ、していなかったのだ。

 忘れたわけではなかった。しなければ、しなければ、と思ってはいたが、涼香に復帰の話しがある、と聞いて電話をする前からなんと話したものか、なんと答えたものか、考えすぎ、つい先延ばしにしていた。

 三枝が涼香の実家に電話をしてからすでに一ヶ月がたっていた。

 さっさと電話をしなさい!と母に叱られ、ついに受話器をとったのだった。

 意を決してぴっぼっぱっと電話プッシュホンを押す。

 トゥルルルル、トゥルルルル、と呼び出し音が鳴っている間、わけもなく、緊張していた。

「はい、島本文具でございます。」

 心臓がきゅつとしぼられる。

「あ、もしもし!あの、私、以前そちらでお世話になっておりました。石原涼香と申します。恐れ入りますが、三枝部長をお願い致します。」

夢中で話し出す。

「三枝ですね。少々、お待ち下さいませ。」

呼び出し中の電子音のメロディーが流れる。涼香はどきどきしながら待った。

「もしもし、三枝です。」

突然、なつかしい三枝の声がする。

「あ!お久しぶりです。石原です。あの、旧姓藤野です。」

「ああ!藤野君か!!久しぶり!どう?元気にしている?」

「はい、おかげさまで。あの、すみません。もっと早くお電話差し上げなければならなかったのに・・・。」

「いいんだ、いいんだ。忙しくしているだろうとは思っていたんだが、こちらこそ突然、お母さんのところに電話したりして悪かったね。どう?お子さんは・・・ええっと、浩之君だったっけ?幼稚園はもう慣れた?」

三枝は年賀状に書いてあった息子、浩之の名前を憶えていた。

「はい、楽しく通っているようで一安心しております。」

「そう、それはよかった。いや、電話したのはね、子どもも少し手が離れてきたら、また仕事をする気がないかと思ったからなんだよ。」

「え・・・、あ・・・、はい。」

予想していたことばとはいえ、また改めて驚かされる。

「藤野君・・・、じゃなかった石原君はまた仕事する気はあるかい?」

「え・・・・?」

また、仕事をする気があるか。

そう問われてことばにつまる。

「あの・・・、え・・と、その・・、主人にも聞いてみないとわかりませんので・・・。」

便利な返答。

「うん、もちろん。もちろん、ご主人ともよく相談してみて。だけど、どうだい?君は?君自身はやってみたいと思う?」

「わ・・私ですか?」

「そう、石原君はどう?また仕事をしてみたい?」

 「君はどうなの?」

「君はやってみたいの?」

「うん、問題点はわかった。それで君の気持ちはどう?やってみたい?」

「なるほど、先輩の意見はそうなんだ。それで君の気持ちは?」

職場で三枝からよくこの質問をされた。

自分の気持ちはどうなのか、と。

自分の気持ち・・・・、時としてもっともむずかしい質問だった。

仕事を始める。

それは、やってみたくない、と言えばウソになる。でも、一方で今更自分に会社勤めができるかどうか、不安だった。涼香はことばにつまった。

「はははははっ!」

電話口で三枝の豪快な笑い声がする。

「失敬、失敬、いや、ちょっと昔のことを思い出したんだよ。石原君、君、以前とちっとも変わってないね。よく、君、黙ってしまっていたよね。僕に『君はやりたいのか、どうか』聞かれて。答えられずにいた。」

三枝も覚えていたようだ。どうやら自分のイメージとして定着してしまっているらしい。

「すみません、成長してなくて。」

涼香が憮然とする。

「そうそう、その調子!そうやって君は怒り出すと結構、自分の考えや気持ちを語れるんだよ。」

「もうっ!三枝部長!!」

涼香が昔の口調に戻り怒り、そして笑った。

「で、どう?やってみたい?」

これだ・・・。

三枝部長は答えを聞くまで決してその質問から開放してくれない。

「それは・・・、はい。やってみたいです。」

涼香はついそう答え、自分自身はっとする。

「そう!それはよかった!!」

喜ぶ部長の声。

「あ、でも・・・。」

「うん、何?」

「あの、どういった仕事なのですか?」

「それは、こちらとしては、以前と変わらない条件でデザイナーとして来て貰えればありがたいけど。石原君はパートの方がいいのかい?」

「・・・・・・。そう・・でも・・・・。パートというと・・・・?」

「例えば週何日とか?毎日でない方がよければそれでスタートしてもいいと思うんだ。どちらにしても、もし、君が職場復帰を考えているならこれ以上ブランクはあけない方がいいと思うけどね。」

主人とよく相談してみます。

最後はやはりそのことばで電話きった。

電話をきったあと、気が抜けたようにぼぅっとしてしまった。

思わず、やってみたいです、と答えた。

それが自分自身、一番驚いていた。

「へぇ〜、すごいな。涼香!」

夫が帰宅し、ビールをあける。

チャーハンをかき込み、せわしくキムチのパックを開けようとする。忙しく食べながらも、妻の話しに感心した。

「復帰の話しが部長じきじきから来るなんて!」

「うん、私も驚いた。」

「でも、そうだよなぁ。おまえがデザインしたフラワーちゃんであの会社も随分利益を上げたんだろ?」

「うん、そうかもね。」

「で、やんの?」

まるで他人事のように聞く。

「だから、それを元浩に相談してるんじゃない。」

「俺はどっちでもいいよ。涼香がやりたいんならやればいいじゃないか。」

自分を尊重してくれているのか、関心がないのか、これでは相談にもなりゃしない。

「俺、このザーサイと白髪ネギのスープ、大好きなんだよな。」

スープに伸ばした手を涼香がぴしゃりと払いのける。

「いてっ!何すんだよ!」

「ちょっと、真面目に人の話し聞いてよ!私の人生の一大事なんだから!!」

「聞いてるよ!だからおまえがやりたいならやれよって言っただろ?」

「じゃ、助けてくれる?」

「助けるって何を?おい!スープ!」

「家事とかぁ、浩之のこととかよ。」

涼香はスープを手渡しながら言う。

「何?何すればいいの?」

「何って・・・・、それはいろいろ・・・。これから決めよ?」

「うーん・・・、できることはするけど、できないことはできないぜ?俺だって毎日忙しいんだからさ。」

元浩ははやりのIT企業でプログラマーの仕事をしている。10:00より早く帰れることなどめったになく大抵は12:00近くになっていた。その上、休日出勤も多い。確かに、今のままで多くを望むのは無理というものだった。

涼香は黙り込んだ。

「なんだよ。言ってみろよ。何してほしいんだよ?」

「うん・・・。でも、やっぱり無理なのかなぁ・・。浩之の送り迎えもあるし。ねぇ、元浩、毎日でなくていいから浩之の幼稚園のお迎えに行ってやってくれない?」

「無理!」

にべもない。

「だから、毎日でなくていいって言ってるじゃない。ほら、フレックスタイムとかってあるんでしょ?」

「ばか言うなよ、おまえ。浩之の幼稚園はH市だろ?迎えに行ってそしてどうするよ?おまえが帰ってくるまで家で待ってろっていうのか?そんな時間あるわけないじゃないか!」

「・・・・・。だよね・・・。やっぱり無理か・・・。」

「いいじゃないか。仕事したいなら、浩之は近所の保育園に預けろよ。ほら、駅前にできたナントカ園、24時間体制って書いてあったぜ?看板に。」

「できるわけないじゃない!!あんなに苦労して幼稚園選んで、浩之だってせっかく幼稚園になれたのに!!」

全くこの夫は何を言い出すやら、モンテッソーリ教育がどんなに素晴らしいか、今までもずっと綾子や他の人から聞いた話しの受け売りしてきたが、ちっとも聞いてはいなかったのだ。育児は私にまかせっきりで!涼香は腹が立った。

「じゃ、仕事の話しは断るんだな。」

あっさり言う。

そう言われると余計腹が立つ。

「ひどい!!そんなの!!」

「ひどいって、おまえ・・。だって無理なものは無理じゃないか。浩之を預けたくないなら働けないだろ?」

「・・・・そうだけど・・。」

「おまえ、やりたいの?やりたくないの?どうしてもやりたければ浩之は預ければいいし、預けたくなきゃ断るしかないよな?」

涼香は下をうつむいて黙ってしまった。

そんな涼香を見て元浩は少しかわいそうになった。

「ま・・さ、人生って選択の連続だからな。今、結論づけなくったっていいじゃないか。ゆっくり考えて選択しろよ。他に何か方法があるかどうかもさ。俺もできることは手伝うし。」

人生は選択の連続・・・。

涼香はふと綾子のことばを思い出した。

「モンテッソーリ教育はね、自由選択活動が主活動になるのよ。つまり、自分で自分のやりたいことを選んで活動するのね。

算数をやりたい子は算数、字を覚えたい子はそれをやるし、クッキーを作りたい子はクッキーを作るし、窓拭きをしたい子は窓拭きをするのよ。

自分が本当になにをやりたいかがわかって、自らやりたい事を選び取るっていうのも、とても大事な活動の内なのよ。

考えてもみてよ。人生においてどちらか一方を選択しなければならないことって繰り返し、繰り返し、出てくるじゃない?

大切な人生の分かれ目に立った時、冷静に全体の状況を捉えて、分析できて、なにより、本当に自分のやりたいこと、好きなことがわかって、選択していけるようになるってことこそが、本当の成熟した大人になるってことだと思うの。

カッとなって『もういいっ!これでっ!!』なんて風に決めたり、『あの人がこういうから・・・』なんて他人のせいにして決めて、ずっとグチグチ言ったり、というのでは決して自分の幸せにつながらない。

しっかりと地に足をつけて、自分で自分の幸せを選びとっていくという行いは、この子どもの自由選択活動からすでに始まっているのよ。」

三枝の「君はやりたいの?」と聞かれ、つい、いつも黙ってしまう自分が思い起こされた。

自分の幸せ・・・、自分は一体どうしたいのだろう・・・?

自分がやりたいこと・・・。

自分がやりたいこと・・・、それは・・・。

「・・・・翔びたいの・・・・。私も・・・・。」

ぼそっと涼香がつぶやく。

「え?」

元浩が聞き返す。

「あ・・・、うん、なんでもない。」

涼香が顔を上げる。

「ねぇ、ねぇ、おかわりある?」

夫が空になった皿を手に聞く。

この明るい夫の食い気ときたら・・・!!

時に腹がたつが、時にこの明るさ、物事を深く考えない頓着のなさに救われる。

「あるわよ。チャーハン?スープ?」

「両方!」

「だめ!!どっちか一つに選択して!!」

元浩は涼香の冗談の意味がよく飲み込めず、目を白黒させていた。