翔びたくて

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「翔びたくて・・・12」

 浩之を幼稚園に連れていき、家に帰る。洗濯物をベランダに干していると、うっすらと汗ばんでくる。 新緑を楽しんだ庭木もいつの間にか緑を濃くし、夏の到来を感じさせてくれた。

 涼香はぐぅっと伸びをして、それからまぶしそうに太陽を見上げた。

「う〜ん!気持ちいい!」

思わず、そんなことばが出てしまう。涼香はもともと夏が大好きだった。

 綾子と話しをして以来、涼香も何かがふっきれたように感じた。

 合わない人とは、適当に距離をあけて。そう、これさえできれば、何も心配することなどない。何かが起きたら、それはその時、考えればいい。余計な心配をしなければ、対人関係も大した問題ではないのだ。

 思えば今までは、浩之が何か問題を起こしたらどうしよう、などと考え、びくびくしていたように思う。しかし浩之もどうやら、何事もなく、楽しく幼稚園に通っているようだし、幼稚園の送り迎えも慣れてきた。浩之のいない間に家事に集中することもできるし、本を読んだり、自分の楽しみのためにも時間を使える。大好きな夏もやってきて、涼香は当たり前の毎日が楽しいと感じられるようになっていた。

「さて・・・と・・。そろそろお迎えに行くかな。」

涼香は鏡の前でさっと後れ毛を直し、ハンドバッグをとった。

幼稚園までは自動車で20〜30分くらいかかる。その道の運転も慣れたものだった。

 園につくと、もう、お迎えの母親達で園門のあたりは賑わっていた。

 涼香はさくら組の前の園庭で待った。

 浩之が出てくるのを待っていると、後ろの方から母親達のおしゃべりが聞こえてくる。不満気な声のトーンについ何事かと傍耳をたててしまった。

「これだから理佐先生は嫌だったのよ。上の子の時も・・・・・・・。・・・・・・・で、・・・・・でしょ?」

途中、うまく聞き取れない。

ん?

理佐先生?

浩之の先生ではないか。

「あなたはいいわよね。ルイ先生で。」

「そうよそうよ。ずるいわ。一人だけルイ先生のクラスで。」

 え?ルイ先生?綾子の友達の先生だわ。

 涼香はますます、好奇心をかきたてられた。

「そうよね、うちもルイ先生で喜んでいるのよ。」

「でっしょーーー!この前もさ、理佐先生に言ったのよ。うちの子、パンツの上げ下ろしがまだ上手くできなくて時間がかかっちゃうのよ。だから、見てやって下さいって言ったのよ。いっつも『はい』って言うだけなのよね。それで、終わっちゃって会話もつづかないから、どんな様子かもわからないし。昨日またお漏らしして帰ってきたのよ。そりゃ、上手くできないうちの子が迷惑かけて申し訳ないとは思うけどさぁ!何か一言あってもいいんじゃない?どんな様子だったかとか、親はそういうこと聞きたいのよね。」

 誰だろう・・・?

 涼香はこっそり盗み見た。

 同じ年少の母親二人がいるのがわかった。青山元気君と川田真理ちゃんのお母さんだ。確か二人とも上の子がつばさ幼稚園を卒園していて、上の子の時も理佐先生だったと言っていた。

 もう一人は知らないが、上の子の時、同じクラスだったのだろう。そして、今はルイ先生のクラスに子どもがいるらしい。

「その点、ルイ先生は完璧よね〜。いつもニコニコしててかんじいいし。いろいろ話してくれるのよ。」

「もう!ずっる〜〜い!」

 涼香はその時、あ!と思い出した。

 そういえば入園式の時・・・。

「ねぇ、日比野先生よ。どうする?」

「どうするもこうするもないわよ。日比野先生ってね・・・。」

 

 日比野先生がどうだというのだろう・・・?

 見知らぬ二人の会話になんともいえない不安感を覚えたものだった。今にして思えば、あれはこの二人の会話だったのに違いない。

「イェイイェイ、イェーイ!!」

 

その時、元気な声がばら組の方から聞こえてきた。

つづけて子ども達が飛び出してくる。

「あ!こらこら、だめよ!先生が先でしょ!」

後から先生が出てくる。

髪を一つに結い上げて、白いポロシャツを着ている。ベビーピンクのエプロンにクマのアップリケがついていて、いかにも幼稚園の先生といったかんじの人だった。

あ!佐藤ルイ先生。綾子の友達ね。

その明るい元気な様子についつい目をうばわれたのは、涼香だけではなかった。お迎えに来ている母親達の大半が思わずばら組の方を見ていた。

「いいわね〜。ばら組さん、いつも楽しそうで。」

「そうよそうよ。見て、さくら!暗くない?」

不満気に青山が言う。

涼香も思わずさくらに目をやった。

さくら組の中の電気が消され、実際教室が暗くなっている。

見ると、子ども達は皆、お行儀よく手をひざにおき、目をつぶって静かにしている。

何をやっているんだろう・・・・?

涼香もふと疑問に思う。

「いいじゃないの。静粛のゲームでしょ。本間先生がすごく大事っておっしゃってたヤツじゃない。あ、じゃごめんなさい。もううちの子出てきたから、またね。」

 ばら組の母親はいそいで、ばら組の方へ行った。

「あ!みいちゃん、お母さんだよ〜。はーい、みいちゃん今日も元気でしたー!」

遠くでルイ先生がその母親をいち早くみつけ、子どもを引き渡すのが見える。

明るく社交的な先生のようだ。確かに日比野先生とは随分かんじが違う。

涼香は今まで日比野先生に不満を感じたことはなかったが、その日比野先生を自分よりよく知る三人の母親達の会話は気になった。上の子の時に何があったというのだろう?なんとなく不安な気持ちにさせられた。

 その時、さくら組のガラス戸が開かれた。

 子ども達は皆、静かに一人ずつお行儀よく出てきた。

 出る時に日比野先生と握手をする。日比野先生はちらりと母親が来ていることを確かめ、それから目で合図を送るように会釈して子どもを送った。

 イェイ、イェイと歓声を上げながら帰ってくるばら組とは随分違う。それだけは確かなようだった。

「ママー!」

 浩之が涼香を見つけ抱きついてきた。

「浩之、お帰り。」

浩之を抱きとめながら、日比野理佐をちらりと見ると、向こうもこちらを見ていた。

日比野先生はこくりとうなずくように涼香に挨拶をし、すぐに次の子と握手を交わした。

もう、涼香のことは全く目に入っていないようだ。あの母親達の不満はこういったことを指しているのだろうか・・・?もっといろんなことを立ち話ししてほしいのだろうか・・・?

しばらくぼぅっと考え込んでいるとふいに自分の名前を呼ばれた。

 「石原さん!」

はっとして振り返ると佐伯由比子が立っていた。

 「どうしたのよ。ぼうっとして。」

 「ああ、佐伯さん。」

 「あ、里穂!ここよ!」

 日比野が佐伯を見つけ、里穂を送り出す。里穂も嬉しそうに走って来た。

 「りほちゃん!」

 浩之も嬉しそうだ。

 「ヒロくん、おててつなご。」

 里穂が差し出す手をテレながらも嬉しそうにつなぐ。二人の母親は顔を見合わせて微笑んだ。

 「で、何?今日は何を考えこんでたの?」

 「え?あ・・う・・うん・・・。」

 どこからどこまで、何を話せばいいのか、涼香は一瞬とまどう。

 「そう・・・、いや・・、何から聞きたいんだろう・・・。そうだ!ねぇ、佐伯さん、『静粛のゲーム』って何?」

 

いいじゃないの。静粛のゲームでしょ。本間先生がすごく大事っておっしゃってたヤツじゃない。

さっきの母親達の会話を思い出す。本間が大事だと話した「静粛のゲーム」とやらを日比野先生がすることに何か不満があるような口ぶりだった。涼香そこから切り出してみた。

「『静粛のゲーム』?ああ、子ども達が静かにするゲームよ。」

由比子があっけらかんと答える。

「子ども達が静かにするゲーム???」

ますます意味がわからない。

「そう。誰が一番静かにしていられるかってゲームらしいわよ。」

「???」

涼香のいよいよわけがわからない、という顔を見て、由比子が付け加える。

「うーん、あのね、日常生活練習の第四グループに入るんですって。」

「あ、ああ。あの第一グループは環境への配慮で、環境や物との出会い。第二グループは自己自身への配慮で、自分の命を大切にする。第三グループは社会への適応で、他人の命を大切にするっていうアレね。」

そうだ、そういえば、その説明を受けていた時、ついに第四グループの説明だけは聞かずじまいで終わってしまっていたのだ。静粛のゲームはどうやらその第四グループに属するらしい。涼香は興味をかきたてられた。

「そうそう。あの時第四グループの説明は聞かずじまいだったのよね。教えて。第四グループってどんな活動内容なの?物と出会って、自分の命を大切にして、他人の命を大切にして、そしてそれから?それからどんな活動が繰り広げられるの?」

涼香が熱心に聞く。

「う〜ん・・・、私もうまく説明できないんだけど・・・。第四グループはね、運動の分析と調整っていうんだって。」

「運動の分析と調整・・・。」

「そうそう。日常生活練習の最後のグループで、子どもの運動の統合をするんですって。」

「運動の統合?」

涼香は頭の中で体育の時間を思い出してみた。

運動の統合・・というと、何か体操でもするのだろうか?

「運動っていうと、あの、体育の時間とかでするあれ?」

「あ、そうじゃないのよ。運動って子どもの動きのことをいうみたい。」

「子どもの動き・・・。」

ますますわからない。

なんとか、理解のとっかかりを見つけようと考えている涼香のとなりで浩之の大きな声が聞こえてきた。

「本間先生!!」

浩之と里穂が本間を見つけ走りよる。

「おう!ヒロ君、りほちゃん、元気だね。」

本間は子ども達から人気があるようだ。

里穂と浩之は大喜びで本間にまとわりついた。

「あ、そうだ!ねぇ、本間先生に聞いたら?」

「え?!」

「だって私じゃうまく説明できないもの。ね、ほら、いきましょ!」

何も臆すことなくツカツカと本間のもとへ歩みよる由比子に涼香は慌てた。

担任ともそんなに話したこともない涼香だった。いきなり副園長と話すだなどと、考えたこともなかった。

「ま、待って!佐伯さん!」

止める間もなく、由比子は本間に挨拶をしていた。

「本間先生。石原さんが質問があるんです。」

ひいいいいいいっ!

心の中で叫びながらも、顔はかろうじて笑顔を作っていた。

園庭の父兄はもうまばらだった。