翔びたくて

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「翔びたくて・・・10」

日曜の朝、涼香の家の電話がなる。

「はい、は〜い。」

キッチンから手を拭きながら涼香が飛び出してくる。

「はい、もしもし。あ、お母さん。おはよう。うん・・うん・・、ううん、かわったことなんてないわよ。皆、元気。うん・・・・うん・・・。そう、元浩、今日ゴルフなの。」

 涼香の実家は同じS県にあった。

 父と母はまだ独身の弟と暮らしている。

 「なに?なんか用?」

 「なんか用はないでしょ。人がせっかく電話しているのに。」

 「ごめんごめん。ちょっと忙しいのよ、今。

綾子が遊びに来るの。この前、電話でいろいろ幼稚園のこと相談しようと思ったんだけど、忙しいからって、ゆっくり話せなかったの。それで今日、遊びに来ることになったのよ。」

 「へぇ、綾子さん元気?」

 「うん、元気よ。あいかわらずバリバリ仕事してる。」

 「綾子さんに幼稚園のことって何を聞くのよ。浩之は綾子さんの勤めている幼稚園に行ってるわけじゃないんでしょ?」

 「うん、そうだけど、つばさ幼稚園も綾子に紹介してもらったようなもんだからね。

綾子のところもつばさ幼稚園もモンテッソーリ教育っていうのをやってるおんなじカンジの幼稚園なのよ。」

 「へ〜え、浩之はモンテッソーリの幼稚園に行ってるの?そりゃ、よかった。」

 「な・・なに?お母さん、モンテッソーリ知ってるの?」

 涼香が驚く。

 「知ってるわよ。もちろん。お母さんは何でも知ってるの。」

 母はいつも自信たっぷりだ。

 「で、誰に聞いたの?どうやってモンテッソーリのこと知ったのよ。」

 「いや、ちょっと勤め先でね。モンテッソーリの勉強をしたことがあるって人がいたのよ。いろいろ教えてもらったわ。断乳のこととか。」

 「え?断乳?」

 ふと涼香は母から断乳をしなさい、と電話で叱られたことを思い出した。

 「あ、ねぇ、お母さん、もしかして、あの話し、そのモンテッソーリやってた人から聞いたの?」

 「ん?あの話しって?」

「ほら、私が断乳挫折しそうになった時に、お母さん、私を説得してくれたじゃない。子どもは皆、一歳くらいになると歯がはえてきて食べ物を食べられるようになるって。」

「ああ、ああ。そうそう。そうだったわね。そうよ。実はあの話しもその人からの受け売りだったのよ。

だけどお母さんもその話しを聞いて、ほんっとにその通りだと思ったのよ。『授乳というのは母子の間でのみ許されるかけがえのない、愛に満ちた行為なのに、それを大きくなって、人から笑われたりして“おっぱい飲むのは恥ずかしいことなんだ”なんて罪悪感をもって終わらせるようなことをさせてはいけない』って。お母さんが言いたかったこと言ってくれたようで嬉しかったわ。

どう?あなたもそう思うでしょ?お母さんの言うとおり、断乳してよかったでしょ。」

やば・・・、このままいくと説教につながりそう・・・。

涼香はは慌てて話題を変える。

「うんうん。あ、ねぇ、それでお母さんの話しって何?」

「え?いや、大したことはないんだけど、ちょっと遅れちゃったけどね、浩之の入園祝い何がいいかと思って。」

「ああ、いいわよ。そんな、気をつかわなくったって。」

「洋服にする?三輪車は?もう、持ってたっけ?」

こっちは忙しいのだ。涼香はなんとか電話を切ろうとする。

「うん、ありがとう。じゃ、元浩とも相談してみるわ。それじゃ、皆によろしくね。」

「ああ!ちょっと待ちなさい!もう一つあるのよ。」

ううう・・、まだ、何かあるのか・・・。

「何?」

「この前ね、三枝さんって人から電話があったわよ。」

「え?」

「さ・え・ぐ・さ・さん。おまえが昔勤めていた会社の人だって。」

「ええ?!三枝部長から?どうして?!」

三枝部長は涼香がヒット商品フラワーちゃんを生み出した時の直接の上司だった。

彼がまだ若い涼香のデザインを強く押してくれ、フラワーちゃんは世に出たのだった。

厳しい人だったが、涼香の実力をよくかってくれ、面倒見のいい、頼れる上司だった。

涼香の結婚式依頼会ってはいないが、年初めの賀状だけは出していた。

「さぁ・・・。なんでも、お前から年賀状はもらっているから、住所はわかるけど、電話番号がわからないから、実家の方にかけさせてもらったって言ってたわよ。」

「それで用件は何だったの?」

「さぁね、よくわからないけど、お前に復帰してもらいたい・・みたいなことおっしゃってたけど?」

「ふ・・・復帰?!!」

涼香は突然のことにことばを失う。

「ふ・・復帰って、また勤めないかってこと?」

「そうなんじゃないの?お子さんも幼稚園に入られるお年になられましたから、って言ってたわよ。」

そう、そうだ。確かに書いた。

今年の年賀状に、今年は息子が幼稚園に入園します、とかなんとか・・。家族の写真をつけた年賀状だった。

それにしても、復帰とはどういう意味で言ってくれてるのだろう?また、デザイナーとして正規社員になってほしいということだろうか?それとも、アルバイトかなにか・・・?

でも、わざわざ三枝部長が電話をかけてきたということは・・・?

涼香の頭の中は目まぐるしく回転した。

「そういうわけだから、お前、三枝さんのところに電話しときなさい。」

「え?ええっ?!」

「礼儀正しい方ね。電話番号を教えましょうか、と聞いたら、いえ、それはご本人からお聞きしますから結構です、とおっしゃったわよ。この次、連絡を取られる時、三枝が連絡を取りたがっています、と伝えてくれればいいって。」

実直な三枝らしい言い方だ。

しかし、あまり急いてもいないのだ、ともとれる。

復帰・・・、考えたこともないと言えばウソになる。

子どもとだけ向き合って3年の月日が流れた。

育児を放り出して外に出られたらと願ったことだって数え切れないくらいある。

仕事をしていた時だって悩みはたくさんあった。それでも、育児に比べれば何と楽しく楽な生活だったことか、そう思えた。

それでも、今こうして現実に社会に戻るという可能性をつきつけられると、それが本当に自分の望みだったのかどうかわからなくなってくる。

涼香は電話を切った後もしばらく、ぼぅっと考えこんでいた。

綾子が来る前にオモチャを片付けなければ、トイレの掃除をしなければ、あれをして、これをして・・・、そんな頭の中の忙しい計画の全てが上の空になってしまった。

気が付けば1時、綾子の約束の時間がきていた。

綾子は割りと時間には正確だ。

玄関チャイムの音に、浩之が喜んで玄関に向かって駆け出した。

扉を開けようとする浩之につづいて、慌てて涼香は玄関に向かった。

「あやちゃん!!」

扉を開けて浩之が綾子に抱きつく。浩之は綾子になついていた。

「こんにちは。ヒロ君。また大きくなったねぇ。どう?幼稚園楽しい?」

「綾子いらっしゃい。どうぞ、どうぞあがって。」

涼香がスリッパをすすめた。

「おじゃましまーす。」

「ごめん、散らかってて。適当に座ってね。」

涼香はキッチンに入り、お茶の用意をする。

綾子も慣れたもので、リビングに入り浩之のオモチャを出して遊び始めた。

「見て!あやちゃん!ウルトラエイトだよ。ズギューーン!ばーんばーん!」

「あ!やめてやめて。撃たないで。あやちゃん、そういうの嫌いなの。」

「ひゅーん、ひゅーん!」

浩之はキャラクターのヒーローや怪獣を戦わせて遊ぶ。

「ねぇ、ねぇ、ヒロ君、何か絵本見せて。あ、これ素敵。『春に咲く花』だって。」

「ひゅーん、ひゅーん、ばんばーん!」

浩之は見向きもせずにウルトラエイトの人形で遊んでいる。

綾子はそんな浩之をチラリと見る。そしておもむろにポン!と手をたたいた。

驚いた浩之が綾子を見る。

「今の何の音?」

綾子が聞く。

「あやちゃん、手をたたいた!」

「手をたたいた?そうかな?ねぇ、今の、お花が咲く音じゃない?」

「違うよ。お花咲く時、そんな音しないもん!」

「そう?本当?聞いたことない?」

「ないよ。」

「じゃぁ、お花に聞いてみようか?」

浩之はあっという間に綾子の話しに引き込まれていった。

「お花、しゃべんないよ!」

「そう?お花ってしゃべらないの?」

「うん、しゃべんない。」

「そうか、じゃぁ、お花はお腹がすいたり、のどが渇いたりもしないのかな?ちょっと一緒に調べてみない?」

浩之は綾子の元に行き、絵本をのぞきこんだ。

そこへ涼香がお茶を持って入ってきた。

「はい、お茶入ったよー。ほら、ヒロ君ちょっとどいて。あ、ウルトラエイトだ!かっこいいなぁ〜。ビデオつけてあげようか?」

「コラッ!!」

綾子が思わず顔をあげ、苦笑いしながら涼香をめっとにらむ。

へ?

涼香はわけがわからない、という顔を綾子に向けた。

「ま・・・いいけどね・・・。」

綾子がローテーブルに向かって座りなおし、紅茶を受け取った。

「な・・何よ。私、なんかヘンなこと言った?」

紅茶を渡しながら涼香がとまどう。

「ううん、いいの。気にしないで。」

「気になるよ!何よ?」

「むむ・・いや、ま、いいんだけどさ・・別に。ここは幼稚園じゃないし、私は先生じゃないし。」

「だけど?もしここが幼稚園で綾子が先生ならどうだっていうのよ。」

「うん・・・まぁ、なるべくウルトラエイトとかから離そうとするかな・・・。」

「どうして?」

「今ね、ヒロ君、ウルトラエイトの人形で戦いごっこするのに夢中だったの。それで、少し何か他の現実に興味を持ってもらおうと思って、苦心してみたのよ。やっと、成功してヒロ君が花の絵本に興味を持ってくれたところに・・・。」

「私が来てだいなしにしたという訳ね。」

「まぁね。」

「悪かったわよ。そりゃ。」

少しまだ納得していない顔で涼香が紅茶にミルクを入れる。

「でも、どうして?ウルトラエイトに夢中じゃいけないの?」

「う〜ん、いけないってこともないんだけど・・・。あんまりドップリじゃちょっと心配かな?」

「どういうこと?」

「子ども達はね、生命衝動があるからいろんなことに挑戦して一人でできるようになりたいんだって話しはしたじゃない?」

「もちろん!よく覚えているわ!」

今日はそれをもっとよく聞きたくて綾子に来てもらったようなものなのだ。

先日のファミレスでの池谷達、母親グループの話し・・・、パン屋でパンをおっことしても子どもに取らせるのだ、という。

あの釈然としない思いを聞いてもらいたくて綾子を呼んだのだ。

「そうして生命衝動が根底にあって、夢中でする活動はね、子ども達にとって楽しくて楽しくてしかたないような活動なのよ。涼香も覚えがない?例えば、自転車の補助輪をはずす練習を夢中でしたとか、浮き輪をつかわないでプールに浮かんでみたとか。」

「あ!覚えてる、覚えてる!自転車の補助輪なしで乗れるようになった時!本当に嬉しかったなぁ。後ちょっとでできそうっての、なんとなく自分でわかるんだよね。夢中で練習して外、真っ暗になっちゃったっけ。」

「楽しかった?」

「そりゃもう。無上の喜びだったわよ!」

「そう!それよ!」

 「え?」

 「そうやって自分でできないことができるようになったり、わからないことがわかるようになったり、自分を高めていく喜びって何にも代えられないものなの。例えば新しいオモチャを買ってもらったとか、そんなものとはもはや質が違う、本当に深い喜びをもたらしてくれるのよ。」

 「オモチャを買ってもらうのとは質が違う深い喜び・・・。」

 涼香は自分の幼い日に味わったなんとも言えないあの喜びを思い出していた。

 綾子がつづける。

 「だからね、子どもが、その自分を高めていく欲求に従いながらその喜びを味わっていくなら、自然とそれがある日、文字に対する興味になったり、数に対する興味につながったりしていくの。」

 「覚えてる・・・。初めて自分の名前が書けたとき、すっごく嬉しかった・・。あちこちに書いちゃったわ。」

 「でしょう?外に飛び出していって、石ころを集めてみて、その違いに興味を持ったり、青虫が蝶に変わっていくのをまるで魔法をみるかのようなワクワクした気持ちで観察したり、計算問題をしてみると、いつもピッタリ答えがあうのがたまらなく嬉しく思えたり。

どう?涼香、ヒロ君にもそんな風に本当に深い喜びを味わいながら成長していってほしいでしょう?」

 「そりゃもちろん!!」

 「だからね、ウルトラエイトだの、魔法の国のお姫様だの、そういった空想の世界にのみ子どもを閉じ込めてしまってはいけないの。」

 ああ、と初めて涼香は綾子が言わんとすることがわかり始めた。

 「子どもにとっての本当の喜びはそんなものの中にあるわけではないわ。子どもを侮ってはだめ。子ども達は自分を高めていく、自分を創っていくという、深い人生の中での真の喜びを得ることができるのよ。

コンピューターゲームに夢中になったり、空想物語に夢中になったり、それはもしその子どもが現実の世界にきっちり足をおろしていて、それらが一時の楽しみを与えてくれる懸想のものであるとわかっているのなら何も問題ないの。

 でもね、現実の世界に全く目がいってなくて、ただその空想の世界にのみ生きようとしているのなら、それは強く警鐘をならさなければね。

 特にヒロ君のようなまだ幼い子どもは充分注意が必要なのよ。」

「ど・・どう注意したらいいの?」

 涼香は真剣だ。

「そうね、もし何か話しかけても全てがウルトラエイトになっちゃったり、他のことに一切興味を示さないようなら要注意ね。」

「ひええええええ!浩之のことだわ!!」

「そう思うなら注意しなさい!」

「どうすればいいの?!!」

「そうね、いきなり全部ウルトラエイトのオモチャを片付けちゃって、一切テレビも見せないとか・・・、そんなショック療法もありだとは思うけど・・・。」

「で・・できるかな・・・?そんなこと・・・。」

「禁止すると余計、執着するってこともあるから、ま、テキトーにね。」

「そ!そのテキトーってどうすればいいのよ!!」

「だから、なるべく他の現実の喜びに目を向けさせるってことじゃないかな?誘いかけて、促して、そしてなにより、一緒に楽しむ!」

「一緒に楽しむ・・・かぁ・・。」

「めんどくさいと思ったでしょ。」

「ぎくぅ!」

「もう少し、ヒロ君が大きくなって、自分で興味を持つようになれば一人でどんどん学習していくわよ。今の内だけ。」

「そうね・・・、そうなのよね・・・。でも、浩之がそんな風にいろんなことに興味を示すようになってくれるかなぁ・・・。」

「なるわよ!今だって!虫とかに興味ない?」

「あ!あるある。何でも見つけるとストップしちゃって大変なのよ。お買物に行く道中だけでも、やれ、アリだの、やれ、だんご虫だの!もう、付き合うの大変!」

「そう!その時の大人の対応いかんで今後もヒロ君がいろんなことに興味を持ち続けていくかどうかが変わってくるのよ。」

「・・・・。どうすればいいの?いつも立ち止まってずっと浩之に合わせていけばいいの?

浩之があきるまで買物の途中でも、付き合って虫を追いかければいいの?」

そうだ。それこそが今回、綾子に来てもらった話しの本題なのだ。

池谷達母親グループは、大人の生活は犠牲にしても、公園に付き合うという、パン屋ではたとえパンを床に落としても子どもの望みどおりに自分でパンを取らせるという。

それでいいのだろうか?それがモンテッソーリなのか。

涼香は必死な形相で親友を見つめた。