翔びたくて

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「翔(と)びたくて・・・1」

玄関チャイムの音がする、涼香(すずか)は弾けるようにリビングを飛び出し、玄関のドアを

開けた。

「こんにちは〜、涼香、お邪魔しまーす。」

見慣れた親友の顔がのぞく。

「いらっしゃーい!綾子、待ってたのよ!さ、入って入って。」

涼香は綾子(あやこ)にスリッパをすすめる。

「ありがとう。あ、ヒロ君だ。元気ィ?大きくなったねぇ。」

綾子は涼香を通り越して、家の中へ向かい手をふる。

もうすぐ3歳になる涼香の息子、浩之(ひろゆき)が母親の後をおって、ちょこちょことリビングからでてきていた。

「大きくなったって、3ヶ月前にあったばかりじゃない。」

「なった、なった!3ヶ月といえばこの時期、随分成長するよ。」

「そうかなぁ、あんまり変わんないよ。」

「毎日、見てるとわかんないんだよ。3ヶ月前に比べれば、いろいろできることも多くなったんじゃない?」

二人は日当たりのいいリビングへと入っていった。

「とんでもない。もう、いたずらばかりで嫌になっちゃう。あ、コーヒーと紅茶どっちがいい?」

「う〜ん、じゃ、コーヒー頂こうかな。ミルクたっぷり入れてくれる?はい、これ。青蘭堂のケーキ。ガトーショコラも入ってるよ。」

「うわぁ、ありがとう!晴嵐堂、なつかしいなぁ、もう都内になんてめったに行かないからなぁ。」

涼香がコーヒーとガトーショコラをお盆にのせ、リビングに入ってきた時、綾子は浩之と積み木で遊んでいた。

「さすが、綾子!子どもと遊ぶのうまいね。」

「そう?積み木してただけだよ?」

「違う、違う!なんか自然だし、子どもも楽しそうだもん。あーあ、私も幼稚園の先生でもしてたらよかったかなぁ。」

「何言ってるのよ。美大に見事合格して皆を羨ましがらせたじゃない!その後もデザイナーになってさぁ。憧れだったよ。」

「小さな、文房具会社のね。はい、ミルク。」

「サンキュ!小さくないよ。涼香がデザインしたキャラクターのフラワーちゃん、今も文具屋でみかけるよ。」

「過去の栄光よ。今は育児に振り回されるただのおばさん。お!このガトーショコラ変わってないね。おいし〜い!」

「何、言ってるのよ。いいじゃない。こんな素敵なお家に住んでさ。優しい旦那様にかわいい子ども。絵に描いたような幸せだよ。」

「通勤に時間のかかる郊外のちっぽけな家に、帰りの遅いダンナ、いたずらばかりする息子?」

「贅沢言ってぇ。私も仕事やめて結婚して家庭に入りたいよ。」

「あのね、綾子、それは独身者が言える贅沢なの。もう、ずーーーーっと!このチビと家にいるだけの生活を毎日してごらん!どんなにストレスがたまるかわからないのよ。あなたには!」

「そう?でも、随分ラクになったんじゃない?ヒロ君が赤ちゃんの時に比べて。こうして一人で遊んでくれるじゃない。」

「そんなことないよ!!赤ちゃんの時はいたずらしなかったもん!」

そのことばを聞いて綾子は笑い出した。

「何よ、何がおかしいのよ。」

涼香が憮然とする。

「だーって、涼香、忘れてる!つい最近までこーんなムンクの絵みたいな顔しちゃってさ、髪ふりみだして、青〜い顔で『寝られない・・・』って死にそうな声だしてたよ?」

「そ・・そうだっけ・・・?そりゃ、確かにあの頃は寝られなかったけど、今だって髪ふり乱してるよ。」

「そうかもしれないけどさぁ、あの頃に比べたら随分育児も慣れてきたんじゃないの?生き生きしてるもん。」

「生き生きなんてしてないよ!怒鳴ってばっかりなんだよ!」

綾子は涼香を見てふふふと笑った。

「あれはヒロ君が生まれてすぐのことだったよね。産院を退院した涼香のところへ遊びに来た。」

涼香は「ああ、」と目をみひらいた。「そんなこと、あったっけ」と思い出し始めた。

「ど・・どうしたの?涼香、そんな泣きそうな顔して!」

「・・・・・・・・・・。」

「ほら、座って座って!どうしたのよ?何かあったの?」

「・・・・・・・・・・寝られない・・・・。」

「え?」

「寝られないの・・・3時間おきにおっぱい上げるんだけど、なかなか寝付いてくれなかったり、ぐずぐずしてたり・・・・。」

「ああ・・・。」

綾子は少しほっとした。

「どうして?ねぇ、綾子!どうして寝てくれないの?産院でお友達になった子達なんてね、夜中はちょっとおっぱいあげればすぐ寝るんだって。昼間だってずっと寝ている赤ちゃんだっているのに!」

「夜寝られないなら昼間寝たら?ヒロ君にあわせてヒロ君と一緒に寝たらいいじゃない。」

「だって、今こうして寝ていても、もしかしたら5分後に起きるかもしれないのよ?もしかしたら3時間も4時間も寝るのかもしれない・・・。どうやってそれを知ることができる?いつ合わせて寝ればいいのよ?!」

「まぁ、まぁ、涼香落ち着いて。」

綾子がなだめる。

「涼香、私、母親失格なのよ。」

「な、なんでそうなるのよ?」

「だって、子育てがつらい。皆、『お幸せそうでいいですね。』って言うの。かわいい赤ちゃんに恵まれて幸せそうって!!でも、とてもそう思えないのよ!私、自分の子どもがかわいくないんだわ!!子育てがつらい!子育てが嫌いなの!!」

それだけ一気に言うと、涼香はついに泣き出した。

「わかった、わかったわよ。お茶でも飲もう。私、淹れるね。キッチン勝手に使うよ?」

綾子はキッチンへ入っていった。

「わ!いいな、ル・シュポアのシナモン・ディーがある。これ淹れるね?涼香もミルク・ティーにするでしょ?」

飲みたくない、と力ない声がリビングから返る。

「ほら、ほら、これ飲んで!お砂糖たっぷり入れたよ。ほら!」

綾子はマグカップにたっぷりのミルク・ディーを入れて戻ってきた。

一つを無理に綾子に持たせる。つられて綾子は口をつけた。

「・・・あ・・・、おいしい・・・・・。」

「でしょ?でしょ?よく二人で飲んだよね。シナモンの香りが心地いいの。疲れている時はお砂糖たっぷりが一番!」

そのことばに再び涼香は泣き出した。

「涼香・・。」

「だって・・・、だって・・・、私、もうお茶もおいしく飲めなくなったのよ。子どもが生まれる前はふらっと街に出かけて、素敵なお店に入って、ゆっくりお茶して。なのに、今は一杯のシナモン・ティーも自分のためにいれられないなんて!!」

「涼香・・・。」

綾子は涼香の背中を静かにさすった。

「軽蔑するでしょ?育児放棄の母親なんて。たかだかお茶一杯のことで大泣きしてさ・・・」

「なんで?涼香は当たり前のこと言ってるだけなのに?」

「当たり前?」

「そうよ。当たり前よ。睡眠がままならないんじゃ余裕がなくなるわよ。その上、生まれたばかりの赤ちゃんの命を守っていくプレッシャーもあるんだもん。追い詰められてしまうわよ。これって『生命衝動』だよね。」

「生命・・・衝動・・・・?」

涼香は泣きはらした顔を綾子に向けた。

「うん、なんていうのかなぁ・・・。『生きつづけたいと思う気持ち』のことなの。でも、生きつづけたいって気持ちはさぁ、そんな『気持ち』なんてことばで表現できるような生易しいものじゃないでしょ?それこそ衝動と言うにふさわしいような、ものすっごーーーーく強いものだよね?生きつづけたいという衝動、生命衝動。」

「生きつづけたいと思う気持ち・・・。」

「うん、例えば、食べるとか寝るとか、生きつづけるために必要なことだよね。『食べなくて死んじゃっても全然いいですぅ』なんて人いるわけないでしょ?人に限らず、全ての動物、全ての生命が持っている衝動よね。

寝るのも同じこと、睡眠は生きるために絶対必要なものだよね。私達には生命衝動があるから寝るし、食べる。

そんな風に人間は生命衝動があるが故の行動をしてるのよ。」

「生命衝動がある故の行動?」

「そ!寝るとか、食べるとか。生きるのに必要でしょ?」

「なんだか不思議な話し、当たり前のことなのに始めて聞くみたい・・。」

「そう、そう。当たり前すぎて皆、意識してないだけの話よね。」

「で、その生命衝動と私の育児と何の関係があるの?」

「うん、あのね、だから寝るとか食べるとか、生命衝動に裏打ちされた行動を邪魔されるとものすっごーーーーーっく!!イライラするの。当たり前だよね。だってそれって生きつづけるのを邪魔されるのと同じだもん。」

「生きつづけるのを邪魔されるのと同じ・・・。」

「そう。このイライラってね、これはもう『どうしてイライラするの?』って聞かれても困るようなレベルで起きるものなのよ。もう、ほんっとに!!ものすっごく!!イライラしちゃうの!」

綾子は顔をしかめ、手に力を入れて、イライラの演技たっぷりに語った。涼香は思わず吹き出した。

「生きることを邪魔されるからイライラしちゃうのね?そりゃイライラするわよね。生死に関われば。」

「そうなのよ!だから寝られない涼香が子育てをつらいと感じるのは当たり前のことなのよ!」

涼香ははっとした。

「でも・・でも・・子どもをかわいく思えないなんて・・・。」

顔色が再び青ざめる。

「二つめ!涼香がね、そこまで追い詰められてるのは立派に母親してるからなんだよ。」

「違・・・!」口を開いた涼香を遮り綾子はつづけた。

「子どもを生んで育てる、これも生命衝動に裏打ちされてるよね。命の連続だもん。」

涼香は黙り込んだ。自分はその命の連続を果たせぬ特別だめな存在なのだ、と言いたげだった・・・。

「だから特に子どもが小さい内はほんのちょっぴりのことでも母親は敏感に反応してしまうの。子どもが泣いたりすれば神経逆立っちゃったりするでしょ?何か赤ちゃんに異常があるのではないか過敏に反応するようになってるのよ。こんな生まれたばかりの赤ちゃんがいる時なんてなおさらよ。いつも神経がピリピリして休まらない。それは子どもを守ろうとするから起きてくる自然な事なのよ。だから涼香は追い詰められているのよ。ヒロ君を守ろうとして神経をすり減らし、自分の睡眠もとれずにますます、つらくなってしまう。立派なお母さんだからなのよ!」

「違うわっ!!」

涼香が大声をあげた。

「違うわよ!立派なお母さんなんかじゃない!立派なお母さんが子どもをかわいくないなんて思うはずないもの!!」

「じゃ、寝れば?」

顔色も変えずに綾子が切り返す。

「じゃ、寝ればいいじゃない。寝たいんでしょ?ヒロ君が泣こうが何しようが布団かぶって寝ればいいじゃない。ヒロ君おいてオシャレしてお茶しにいけばいいじゃない。」

「できないよ。そんなこと!」

「なんで?!!」

涼香は「あ」と小さく声をあげて黙った。

綾子はニヤリとわらった。

「でも、でも・・・、他のお母さん達はね、育児が楽しいって・・・。赤ちゃんを見ていると幸せだって・・・・。」

涼香は綾子を見ずに話し出す。

「人は人、自分は自分!さっき涼香言ってじゃない。夜のおっぱい、飲んですぐに寝ちゃう子がいるんだよって。いろんな子どもがいて、いろんなお母さんがいる。だから、子育てが楽しいって思える人や、そう思えるような状況の人もいれば、そう思えないで追い詰められちゃう人もいる。夜、寝ないのはヒロ君が悪いわけじゃないのと同じで、今、涼香が追い詰められちゃっているのは涼香が悪いわけじゃい。」

涼香は布団の上に寝かせられている浩之のもとへそっと行き、そっと抱き上げた。

浩之が驚いたようにぴくりと身体を動かす。そして眠り続ける小さな命を涼香は抱きしめ、下をうつむいた。

涙が頬を流れて止らなかった。

「一人一人、みーんな違う身体を持って、みーんな違う悩みがあって、そして一人一人、みーんな違う可能性を秘めてるんだよね・・・・・・。ほら、ほら、ちょっと寝てきなよ。私、ヒロ君みててあげるから、明日の朝まででもいいよ。たっぷり、すっきりするまで寝ておいで。」

うん、うん、とうなずきながらも涼香は浩之を離せなかった。

綾子のことばを聞きながら、どうしても・・・・、どうしても涙が止らなかった。